Title: どろどろ。

「どろだんご」ばかりをつくっているわけでもなく。それが自分の生業でもないのだけど、でもおそらくこんなに人生でどろだんごをつくったことのある34歳もそう多くはないと思うわけで。

最近、子どもたちのどろだんごをつくるスキルがあがってきて、もはやピカピカにするに飽きたらず、色をつけて、さらに磨きをかけて、もう泥だかなんだかわからないようなものにまで昇華させる子どもまででてくる中で感じたこと。

どろだんごをつくる手順というのは、

まず芯となる土を練る。練る練る練る。空気を抜く。

陶芸の世界ではこの土を練る作業を「菊練り」というそうだ、菊練り3年ろくろ10年だそうだ。どろだんごをつくっててもこの作業は思いの外大事だということで、ちゃんと練れてないとひび割れをしてしまったり、しっかりとした球体にならない。土の中にあるつぶつぶした塊をつぶして、空気を抜いて、練りに練った土を手の中で転がす。

転がす転がす転がす。

ここの力加減も重要。すこし乾いてくるとここで力を入れすぎると表面からひび割れてしまう。そして少し土の湿りがとれて、手に泥の痕がつかなくなるくらいまで乾いてきたら形を整えて自然乾燥させる。

すこし乾いたら、ここからの作業がどろだんご作り中でも核となる作業、乾いた土、通称「ふわ土」を表面にかけて、それを手ですりこむようにだんごをこする。つまりはここで研磨しながら、芯となる土のまわりに光る層をつくっていくのだけど、ここも加減が必要で、土をかけすぎると、表面からパリパリはがれてしまって、すり込みが足りないとうまく光らない。

何が言いたいかというと、その作業工程のほとんどに感覚的な要素が多くて、はじめてつくってもなかなかピカピカにはならないのだ。何度も繰り返すことで、その感覚がなんとなくわかってくるとどろだんごが光るようになるのだけど、子どもたちはそのなんとなくの感覚を自分のものにする時に、例えば土の乾いたタイミングをはかる時「つめたいか、つめたくないか」「軽いか、軽くないか」「やわらかいか、やわらかくないか」とか、嘘かほんとか「匂い」でそれを見極める子どももいる。それぞれがそれぞれの感覚でそれを判断をしていて、その感覚のとらえ方にこんなにも違いがあるのだということに驚かされるのです。

それに何度も繰り返すうちに、いま自分のもってるだんごがうまく光るかどうか、その感覚的な判断というのもうまくなってきて、もはや国宝級の陶芸家のように、いままで大事に手の中で転がしていただんごを唐突にたたきつけて、これじゃだめだ!作り直し!などということはもはや日常茶飯事となっている。

そしてかなりの確立で光らせることができるようになる子どもがチラホラ増えてくると、その子が他の子どもに指導をするのだけど、その教え方もまた千差万別でみていてとても面白い。「伝える」ときに必要なことはつくづく達者な言葉ではなく、言葉に頼らなくとも大事なことはしっかりと伝えられるもので、大事なのは教える側がいかにそれに夢中であるかどうかとか、そういう温度みたいなものが大切で、結果としてそれが教わる側に伝われば最後に目的は達成されるのだ。

そして一番響いたのは。

1つのだんごを最後までピカピカにするためには、それなりの時間と労力が必要で、1日の自由遊びの時間だけでは完成させることができなくて、何日かにわけてつくることもあるのだけど、その大事につくっただんごを不用意に落として粉々にしてしまうということがよくある。

その瞬間まわりで見ている自分とかは、あっ!泣いちゃうんじゃなかろうかとか、ショックを受けてるんじゃなかろうかと、余計な心配をしてしまうのだけど。

その時に、自分で大事に大事につくって、何度も何度も取り組んできている子どもほど、またつくればいいやってなもんで、切り替えがとてもはやくて、ショックはあるのだろうに、黙々とまた次のだんごにとりかかるのだ。

それはきっと自分はまた光らせることができるという自信からくるものなのかもしれない。その姿をとても頼もしく、そしてまぶしくも感じるのです。

たかがどろだんごなんだけど、されどどろだんご。

一つのことに五感を研ぎ澄ませて向き合うということは、本当に大人の想像する以上にいろいろなところを育むのだなと。

そんなことを感じたとかいっておかないと、どろだんごをつくって遊んでるだけだと思われるので、大義名分と自己肯定の為に書き残しておくことにする。









POSTED @ 2014.10.31 | Comment (0) | Trackback (0)

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