Title: いわんや。

どんなに着飾っても、取り繕っても、すました顔でも、必ずどこかにちらっと我執とか我欲が綻んできて、実はそれがいつもどこかでくすぶっているということが人間の最大のメリットであり最大のデメリットなんだろうな。まさに一如。

仏教はそのぽろりと綻んだ我執とか、我欲とかに遠慮なく、そして重箱の隅をほじくり返す並につっこんできて、ほじくりだした挙げ句、それを目の前にぶら下げて突きつけてくる。目を背けようものならあの手このてで顔を向けさせるとか。

まるでどS。

だからやはりある意味うっかり踏み込むには危険な世界であるのかも知れない。

そこに癒しを感じられるようになるとか、救いをみいだせるようになるには、ある種玄人的な感覚の変化が伴ってこなければいけなくて、五反田に例えるなら、スタンプカード1枚は一杯にするくらいには向き合わなければいけないのかもしれない。

変態を感覚的なマイノリティと定義するのであれば、いわんや僧侶もそこにはいらねばならないのかもしれない。

私は一体朝からなにをいってるのでしょうか。

今日から園には子どもたちがやってきます。



POSTED @ 2013.08.21 | Comment (0) | Trackback (0)

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