Title: 國権

自分の中ですっきりとしたこと。

正直にいうと、そもそもカウンセリングとか傾聴とかそういう類の人の関わり方を懐疑的に感じていた。

自分が昔カウンセリングを受けた時に感じた違和感がぬぐい去れなかったというのもあるのだろうけど、それだけでは片付けられない違和感みたいなものをいつも感じていた。

なにか自分の手の内をさらさないで相手に両手をだせというようなスタンスで人に関わっているように感じてしまって、性に合わないというのが正直な気持ちかもしれない。

しかし明確になんで違和感を感じるのかということにはずっと答えをだせずにいたのだけど、昨日ある精神科医の先生の話を聞いて、その喉につかえたような違和感がすっきりした。

その先生は、ひきこもりをはじめPTSDや心に傷を抱えた人達へのケアの方法を学術的にお話してくださったのだけど、一番印象的だったのは「人薬」という言葉だ。

喪失感によって心を痛めた人達をどう癒していくかという話の中で、その先生は喪失感は自己愛の欠落であると表現された、何かを喪失したことで、自らの自己愛も欠落し、そこから自信失い、自分を見失い判断力すら失っている状態を心の病の状態であるという。

その状態を正常な状態にもっていく時に、まず人と関わる中で、相手からの共感、承認を得ることで、しっかりと自己愛を取り戻し、そして自信を取り戻していくという。そしてプロセスにおいて人は癒されていく、人と関わることで人は癒されていく、もちろん通常の薬を使うこともあるけれど、それは万能なわけではなく、最後は人でしか人は治していけないというニュアンスの話をされていた。

そしてそれは決してバーチャルでは代替えできないと強く断言されていたのが印象的だった。

実はこの喪失感を自己愛と表現されたことが自分の中ですごく安心したというか、自分の中でのどのつかえのとれる一番の要因になったと思う。

正直にいうと、例えば葬儀の時や火葬場で家族を失って、泣き崩れている人を見ているときに、ふとその涙は誰のための涙なんだろうかということを感じることがよくあった。

そういうことをいうと引かれそうだから、あまり口にはできなかったのだけど、泣くということは、何かを失ったかわいそうな自分に流す涙であって、寂しいとか悲しいも、すべて主観的な感情であって、結局の所人間というのは、最後の最後も自分の為に涙を流しているのだなと感じることがよくあって、むしろ浄土真宗である自分は、だからこそそこに本願の頼もしさを感じたりするのだけど、そういう思いをうまく言葉にすることもできず、誰かに伝えることもできずに、いつも自分の中でその答えを探していたように思う。

仏教においてもまさに、喪失感や苦しみに対して、その要因となるものは何かといえばそれは自己愛であり、執着によるものであるといえる。

その点で、精神科医の視点と、僧侶と視点というのは、同じベクトルを向いているといえると思う。

しかしここからが自分の中でなぜ違和感を感じていたのかという部分なのだけど。

「人薬」というのは、人の作り出したものであり、むしろ言い方を変えれば、その薬は普遍なものではない。他人からの承認や共感によって傷が癒されていくというプロセスは間違いないと思うのだけど、そこで癒された人がまた何かを喪失したときには、きっとまた「人薬」を求めるのではないかと思う。

しかしそれはそこに人がいなければ成り立たないとも言い換えられるのではないかと思う。

それと同時に必ずしも人は薬になるとも限らない。人薬を頼って、だれかに寄りかかったときに、さらに深く傷つくということもありえる。それは癒してくれる対象が不完全な人間だからだといえると思う。

精神科医の先生達は異論をとなえるだろうし、カウンセリングや傾聴をしている人達からしたら納得してもらえないと思うけど、どんなに訓練をしても、どんなに人と向き合おうと、人間は所詮不完全だ。だから必ずしもいつまでも薬で居続けられるかどうかはわからない。

苦しみや喪失感がある程度のレベルまで来たときに、「人薬」には限界がくると思う。

しかしこれもフェーズの問題であり、「人薬」できれいに回復する人達がいることも間違いなく、それを否定する訳ではなく、その範囲の中で掬える人を救っていくということは絶対になくてはならないと思う。そこで1人でも多くの人が立ち上がり歩きだせるようになってほしいと思う。

それを踏まえた上で、僧侶の立ち位置というのが、精神科医の観点と違うのは、僧侶はその治療を仏法で行う、仏法をその人の中に落とし込むことで、その人が人薬を自己精製できるようにすることが大切といえばいいのかもしれない。

うまく言葉にできないけど、心理的な治療というのは、有限対有限の対比であるのに対して、宗教というのは、有限と無限の対比であるということではないかと思う。

もっと例えるなら、心理的な治療が外科治療だとしたら、宗教的な治療は、外科治療であるのと同時に、習慣予防みたいなものまでが含まれるのだと思う。そして最終的には自分で外科手術ができるようになるようになることなのだけど、それを代わりにやってしまうのではなくて、自分でできるように良くできたマニュアルを渡してあげることなのだと思う。

僧侶の仕事はそのマニュアルをいかにわかりやすく、現代語に訳してあげるかということであり、そのうまさこそ僧侶の資質なのだと思う。

仏法による救いは、いくつになっても、どこにいても、だれかがいようといまいと、絶対に変わらないし、個別の苦に対してしか対応できないわけではなく、あらゆる場面での苦に対応できるもので、仏教を自分の中に落とし込むというのはそういうことなのだと思う。

仏法に限ったことではなく、宗教というのはそういうものだと思う。

逆にいえば宗教はそうでなくてはならないと思う。だから救いを与えてくれる対象が有限である宗教は、カルトと呼んでいいと思ってる。

仏教には「自灯明・法灯明」という言葉がある。自らを灯火とし、法を灯火としなさいと書いてある。法というのは普遍的な教えということになると思う。普遍的な教えというのは、何百年も前から同じ事を繰り返し、かわらない人間の取り扱い説明書みたいなもので、それを紐解きながら、自分と照らし合わせて自分の扱いにもっとうまくなりなさいとうことなのではないかと思ってる。

これは自分の中では、自分の心の主導権を自分の外に置いてはいけないといっているのだと思っている。

なんか一言にしてしまうととてもシンプルになってしまうのだけど、

「自灯明・法灯明」

僧侶が自分で誰かを救ったら、それは仏法ではない。

これがいままでカウンセリングや傾聴、心理学的なアプローチ全般に対して、自分の感じていた違和感の答えであり帰着点なのだと思う。

その違和感は自分が僧侶であるがゆえであるのだと思う。

文章にすると難しいし誤解も招きそうな書き方をしたのだけど、僧侶である以上、仏法に根拠を求める姿勢を忘れてはいけないということで、仏法に根拠を求めて変えるべきは、誰かではなくまず自分であるということも忘れてはいけないことであるように思う。

なんか昨日の今日でまだ頭の中がちらかっているし、うまくまとめきれないのだけど、備忘の為に残しておこうと思う。




POSTED @ 2012.09.12 | Comment (0) | Trackback (0)

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