Title: 刀身

昨日、ひさびさに抜き身の刀をぶらさげてるような友達と話をした。

なんか、いろいろなことを話して、家までの帰り道、話し終わった後の自分の中にあるもやもやしたような、なにかを掛け違えたかのような感じが気になっていたのだけど。

それがなんなのか考えた。

きっとそれは、いい年して思春期みたいなこといって、自覚的に抜き身で刀をぶら下げてるような姿勢に対して、その感覚が自分の中にもあったであろうという回顧と、それを反芻しつつもいまの自分の中には、もうそれがないという喪失感みたいなものと、その喪失感を自己肯定した今自分の中にある確固たるもののせめぎ合いみたいなものなんじゃないかと思った。

だから否定もできないし肯定もできない。

自分の中のプロセスを思い返してみるに、それを侍に例えるなら、抜き身で刀をぶら下げて生きていると、結果どこかで自分はこときれるだろうなという体感があって、刀は大事なときだけに抜けばいいんだと思って、刀を鞘にしまって腰にぶらさげることにした。でも手は柄にかかったままだったんだろうと思う。

でもある時に、例えばそれが身を守るためでも、なにかを得るためだとしても、刀でなにかを解決しようとして、それがうまくいっても、うまくいかなくても、その結果に自分の技量も業も経験も、もっといえば、その刀が業物だろうとナマクラだろうとそんなに関係ないのだと思った。

研ぎ澄まされた業物を持っていればなにかを守れて、なにかを得られるかと言えばそうじゃない。

100人切れることもあるかもしれないが、ただの一人もきれないときもある。

最後は木の枝でも箸でも同じだきっと。

そう思ったら、腰にぶら下げてても邪魔くさいからどこかにおいておこうと思った。

でも今それはどこにおいてあるかもわかってるし、いつでも取り出せるようになってるし、実は時々出してきて、手入れをしたりもする。

もしかしたらいつか、どこにしまったかも忘れるかもしれないし、そうなったら理想的だなと思う。

なんて言葉できれいにまとめようと思えばそういうことなのだけど。

でも正直言うと、気づいたら時々押し入れから刀を出してきて、辻斬りのようにだれかをぶった切りたくもなる。そんで自分の刀をみせびらかして、誰かにその刃紋きれいですねとか、その鍔しぶいとか言われたい。

でも
そういう衝動と、そこから生じるひずみみたいなものををうまく処理できるようになったということが、きっと今自分が思春期ではない証拠なんだろうと思う。もっと正確に言うと、その処理というのは、自己肯定でもあり、一時的な逃避でもあり、きっとこうして書くことも含まれる。

思春期の定義なんてものはしらないが、昨日おもったのは、思春期ってのは、自分の取扱説明書の初版をつくっているような時期なのだろうと思う。人間自分のことに力を使うということが一番脳が喜ぶから、そういう状態の時は、いろんなことを体験して自分の視野を広げようということに大半の力をそそぐわけで、そういう時は往々にして人を傷つけても屁でもなかったりするのだろうと思う。反抗期がいい例だ。

自分の取り扱い説明書の初版を、荒削りにつくったら、それを少しずつ活用しながら、角をとったり、頁に付箋を付けたり、新しく書き込んだり、書き換えたり、そんなことを死ぬまで続けていけるような生き方をしたいものだと思った。

できれば、というか、あわよくば、あまり人を傷つけずに。

昨日話をしてて、片足こっち側でしょうと言われたが。

たぶん。

いやたぶんというか。

いまこうやって冷静に考えれば考えるほど、自分はそうじゃないぜとか思いたくとも、きっと片足どころかもっと大部分そちら側なのだろうと思う。

それを認めるか認めないかの違いなのだきっと。

と、まあここまで考えて、頭の中が堂々巡りしそうになって、最後に行き着いたのは、結局のところ、何事もカテゴライズして、言葉に変換して考えるという行為は、実は本質から一番遠ざかる行為なんじゃないかと思って考えるのやめた。

はいエポケー。

行動や言動や立ち位置や生き方も、結局はその動機付けなんて、決して単一的なものでなく、きっと自分の思いつくすべてであるし、おもいつきもしないすべてなんだ。

だから。

また、岩手産のおいしい椎茸を食べながら、おいしいビールがのめたらそれでいいや。

POSTED @ 2011.05.19 | Comment (0) | Trackback (0)

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