Title: 水・陸・そら・無限大。
ここで一応区切りなのです。小学校のことから変わることなく、終業式を迎えて、物理的にも精神的にも区切りをつけるのです。きっと夏が好きなのはこの区切りを境に前と後にじわりとonからoffに切り替わっていく感じが好きだからなのかもしれない。
昨日は立て続けに何人かの友達と電話をして。
泣いてたり、笑ってたり、疲れてたり、うかれてたり。
わずか1時間くらいの間に喜怒哀楽を全部垣間見た気がして、この開放感にあふれた夕暮れにも、世界はしっかりと回ってるんだということを感じた。
自分の笑っているときにも、どこかで誰かが泣いていて、自分が苦しいときにも、どこかで誰かが開放感を感じていて、どこかで誰かが絶望を感じてる瞬間に、希望に灯が灯る。
世界は着実に、無情にも寛容に回ってる。
なんか。
やっぱり少し先になにか約束をつくってしまうことが苦手だ。
どうしても唐突に行かなければならないところができたり、どうにも待ってはくれないことが日常にたくさんあるから、楽しみにしてるところや約束よりも優先しなきゃならないことも多いし、その度にわかってはいるのに、心の中にイガイガしたものがひっかかる感じが嫌なのだ。
それでもその心の置き方を克服することは、大人へのステップなのだとかおもってがんばるのだけど、でも最近は苦手なものを克服するのと、体型に合わない服を着こなそうとするのは違うのかもしれないと思う。
自分の一番いい状態を知るってことは、幸せを考えるときに避けて通れないところで、大概の諍いと争いと苦しみは、自分で自分の身の丈を知らずにいるところから生まれるのだと思う。
自分が一番力を発揮できて、しなやかで、負荷のかからないポジションをどのタイミングで掴むかということで、人生の彩りは変わるのだと思う。
でもそのプロセスで難しいのは、どうしょうもない自分と対峙しなければいけないことと、それを許容する勇気が必要なことだ。つまるところそれは価値観を再構築するときに、いい状態や悪い状態をイコールで幸せや不幸と結びつけないことなのだと思う。
それと。
消耗のベクトルを還元できる先をみつけるということは、人生において大事な事なのだけど。でもそれはあくまで代替えにしかすぎなくて、そもそも消耗するということそのものに取り組むことも大事なのではないかと思うのだ。
同じ刺激を受け続けて自己修復を繰り返していると免疫機能が過剰反応するようになって、それがあたりまえになると、痛みとか悲しみみとか、怒りも喜びとか、そういうシンプルな刺激の心地よさが心地よくなくなってしまいそうだと思う。
なんか回りくどいいい方だけど、それはたぶん鈍るというやつだ。
世界はほんとどうしようもなくシンプルで、どうしようもなくくだらないことが絶妙なバランスで成り立っているのだ。そこには意義も意味もなんにもない。
ただ日が昇って月が出て、また日が昇るだけ。
そのただの出来事を勝手に、劇的に、絶望的にそして運命的に希望を持って生きてるだけの話。
暑いし、鼻くそほじりながら昼寝でもしよ。
POSTED @ 2011.07.16 |
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