Title: 熱量。
すべては熱量だ。
自分の中から熱を自家発電して、その温度を保ったまま、いかに冷まさないで表に出すか。
その熱量をいかに自分の中で作り出すか、そこに苦悩したり試行錯誤して、自分の中でなにに熱が上がり、どういう時に熱が下がるのかを熟知して生きていくことが自分の中の命題だ。
熱量がなきゃそんなものは全部付け焼き刃だ。
話すことだけでない、書くことも、きっと撮ることも、歌うことも、なんでもいい。
自分の中にあるものを表現すると言うことは、そのプロセスに右往左往して、自分と向き合うことと切っても切り離せないところにあるんだろうと思う。
そのプロセスに腰すえて覚悟できるかが、一握りにはいれるかどうかの分かれ目なのかもしれない。
んで、プロセスにはたくさんのリスクも伴うし、時に、擦り傷ができることもあるかもしれないし、もしかしたら骨折することもあるかもしれないし、最悪入院して、立ち直るのに時間がかかることだってあるかもしれない。
年取ってカサブタができなくなって、大きな怪我しなくなるのは、成長したからじゃない、挑戦しなくなったからだ。
これは幼稚園で学んだことの一つ。
この年になると、いろんなしがらみや、仕事や、いろんな物理的な要因がたくさんあって、自分の熱量をあげられないことにも簡単に言い訳が見つかるし、その言い訳にもっともらしい理由をつけられるようになる。
若くないしとか、いまの自分もきらいじゃないよとか、いまそれなりに幸せだし居心地いいしとかいって、リスクを負わないように、無難にいきようとして得られる安穏だってそりゃすばらしいし、そこで生きていけることこそ幸せなのかもしれないけど、そんなのはもうすこし年をとってからでも手に入るんじゃなかろうか。
今は、今しかないのだ。
怪我しても致命傷にならないくらいの若さを持っているうちに脛に傷の一つでもつくればいいのだ。
先のことを見越してなにかを得ようとしてたら、きっとその時になっても手の中にはなにもないのだ、ばかやろうとか青臭いことを言い放つ。
守るなと言いたいのじゃない。守ることに最もらしい言い訳をつけてると、逃げてるときにも自分を簡単に許してしまうぞばかやろう。と言いたいのだ。
リスクのないところから、自分の手を汚さず、手を下さす、腕を組んで汗もかかずに、なにを得ようだなんて虫がいい話なのだ。
おい自分よ。
POSTED @ 2011.09.06 |
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