Title: ツイート備忘。

若此のわざの外に渡世の計略あらば、速やかに此の悪縁を離すべし。たとひよの計略なしという共、身命を顧みざる志あらば、又此の業を捨てるべし。若 又世の計略もなし、身命を捨てる志もなくば、ただ その身ながら 専ら念仏すべき也。

念仏の前提にはやはり厭離穢土があるんだよな。その前提がないとどうしても欣求浄土にはならないし、ここがどこまでも娑婆であるということと、この世とあの世が隔絶された対比の中にあると思えなきゃやはり浄土教は意義を失ってしまうのですよね。曽我先生。

推敲されてない思いつきなうえに感覚的で乱暴な表現だけど、自分が念仏をしているという時にはまだ、自分と念仏の間には隔たりがあって、自分と念仏の間には溝があるようなきがして、最後の最後は自分自身が念仏そのものになれるかどうかみたいな感覚なんだよな・・・

究極、浄土教の意義にそって考えれば考えるほどに、誰かを救うのは自分ではないし、困ってる人や苦しんでる人はおれじゃなくて阿弥陀が救うよって話になってしまうのだよ。でもそれが言えないからこそに誓願がますます頼もしくなるのか・・・ああおもしろい。

そこで親鸞聖人はきっと歎異抄の4章のようなことを口走ったのだと考えると妙に納得いく。


POSTED @ 2012.05.15 | Comment (0) | Trackback (0)

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