Title: 感情の墓場。

32才になる。

サイトをリニューアルして丸一年。

誕生日を迎える前には、かならず1年分の日記をすべて読み直すのだけど、昨年30才の最後に自分は、

論語の中には「三十にして立つ」という言葉があるけど、自分はまだ一人で立ってるかというと全然そうじゃなくて、わがまま三昧なのに、自分を自分でいさせてもらえてるのは周りの人たちの理解とか、温かい目があるからだと思う。でも誤解を恐れずに言うなら、ここから先に進むのにその温かさや理解を維持しようとすることでいっぱいいっぱいになったり、失うのが怖くなったりしないようにしなきゃと思う。それじゃ本末転倒だから。

と書いたようだ。

そんなことを思い出しながら1年を振り返ると、たしかに失うことに対する恐怖というのがだいぶ薄れたように思う。こうみえて、自分は結構手の中にあるものに執着をしてしまうほうなのだけど、年々その執着もなくなってきたように思う。

それがなんでか考えてみると、いい意味で自信がついてきたからなのだろうと思う。

自信といっても、自分はできるんだとか、自分はすごいのだとかそういう類のものではなくて、この1年は、ほんとにいろいろな場所で場数を踏ませてもらえて、自分の実力には過分な仕事を任せてもらえて、正直いえば、求められてるものを100%だせたかといえば、反省点ばかりでむしろ今の自分の実力不足を痛感して、自分の実力がどの程度のものか思い知らされたのだけど。

でもだからこそ課題がみえたり、自分の武器がわかったり、進みたい方向や、やりたいことが明確になってきて、今やるべきことが具体的になってきて、今やるべきことが具体的になればなるほど迷うことが少なくなったような気がするのだ。

なんか遠くに遠くに合わせようとして、手元のピントがあっていなかったのが、ぐぐっと手元にピントがあってきたような感じだ。

なんでもそうだと思うのだけど、持論を持って初めて見えてくることというのがあるのだと思う。正しいか正しくないかは別として、自分の中でああでもない、こうでもない、これもいいし、あれもいい、なんてことをこねくり回したあげくに、自分はこれでいく。という持論を持つということが大事で、その持論ができたら、あとは腹括ってそれを研ぎ澄まして、ぶつけあって、たたきあって、昇華させていく作業にシフトしていくのだろうと思う。そこではじめていろんなことが極まってくるのかもしれないと思う。

そういう意味で、この1年で僧侶としても、保育に関わる人間としても、自分の中にある持論もぐぐっと形になってきた気がするし、それを武器として誰かとぶつけ合ったり、腰にぶら下げて歩けるくらいにはなってきたのだと思う。

これからはその持論をもっと研ぎ澄ませるためには、何が何が必要で何が必要じゃないかというところで取捨択一をすればいいのだ。きっとそういう意味で、あっちもこっちもかじってみたりして、オーバーフローするようなことはもうないと思うし、失うことの恐怖も昔ほどなくなった。

自分は今から宇宙飛行士になれないこともわかってるし、世界変えられるとも思ってない。でも自分の武器をもっともっと研ぎすましていけば、今よりも確実に、守れる範囲も、支えられる人も増やしていけると思っている。

その結果なにになるかはわからないけど。

でもどうなるかとかどうなりたいかというのは、おぼろげなくらいでいいのだ、今やるべきことにピントがあっていれば、結果としてなりたい自分になれるのだと信じてる。

んで。これから先に注意すべきは、自分の方法論や、習慣が慢性化して、知らず知らずのうちに、同じアングルでしか物事を捉えられないようになって、それを持論だなんて振りかざさないようにしなきゃいけないし、むしろ、自分が自信をもって振りかざした持論を粉々にぶっこわされるような瞬間にわくわくして、どきどきするような感覚は忘れては駄目なんだろうと思う。

まえにまえに。

もっともっとまえに。

さて32才。

どんなことがあって、どんな想いをして、どんな1年になるのだろうか。

むふ。

POSTED @ 2012.01.07 | Comment (0) | Trackback (0)

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