Title: 903。

暑い。じりじりと暑い。

暑さ寒さもなんとやら、お彼岸でこの暑さも終わりかと思うと、最後のこのじりじりした日差しも名残おしい。

名残おしいと言えば。

名残惜しい時に湧いてくる気持ちは、とてもリアルだ。

名残惜しさの中にある、消えていくことを受け入れる気持ちと、そこに抗おうとする気持ちのせめぎあいみたいな。そういう拮抗した反比例するものが一緒に湧いてきたときの自分の中に起きている感情はなににも代え難い。

そういう時に自分の中で起きる化学反応みたいなものを、じっくりと味わうのが好きだったりする。

自分の中で起きる化学反応と言えば。

自分は昔から木登りが得意だったのだ。だからよく猿みたいだといわれていた。

もちろん今でも木登りは得意だ。そして自分の幼少期に木登りが得意というアイデンティティは人格形成に大きく関わっているのだと思うし、いまだに、サイトの名前や、携帯のアドレスにmonkeyという単語を入れたくなるのもそういうところからきているのだろうと思う。

こないだふと、木登りをしていて、この感覚を捕まえておこうと思ったのだけど。

ものすごく高い木に登った時に、てっぺんから見える景色は格別で、それに木の上っていうのは日常とは隔離された特別な時間が流れているのだ、それを独り占めするような感覚がたまらなく気持ちいいのだ。

この時に自分の脳みそのハードルはこの快感をしっかりとインプットしたのだろうと思う。

ちなみに、木のてっぺんで感じる気持ちと、休日や深夜の誰もいない街、特にビジネス街の空気はとても似ている。

それともう一つ。

木の上で感じることの1つに、このまま手を離したら死ぬな。と感じられることがある。子どもながらにその恐怖を感じたり、でも枝を握るその手に、いま自分は命を握っているのだというリアリティがこもっていて、その時に感じるドキドキ感とか、そこで得た高揚感のようなものも自分の人格形成の根源的なところに根付いているのだと思う。

これは旅をしているときに感じる高揚感ともすこし似ている。

破滅願望とか、破壊衝動とかそういうのとは違う、命という目に見えないものを、しっかりと手に握るような、言葉で表すには難しい感覚的なもの。

例えば、自分が今木に登って、木の上でぶら下がって、落ちるか落ちないかのところでぶらぶらしてたら、あいつ、ついに気が触れたんじゃないかと思われるだろうし、それは多くの人の目には狂気にうつるだろうから、保守的な自分は決してそんなことはしないけど、その狂気みたいな行動で得られるであろう、感覚とか気持ちよさがあるということは、しっかりと脳にインプットされていているし、その行動は自分の目には狂気でも何でもないし、むしろそこの感覚に意識を向けるという点では高尚な事だと思ってる。

これは単に木登りの話だけを指すのではなくて。

狂気といえば。

結局のところ、狂気はマイノリティであり、マイノリティは切り捨てられるのが世の常なのだけど。狂気を切り捨てるということはきっと、自己への探求を放棄することでもあるんだろうと思う。

深い部分で人間はすべてつながっているのだと思う。

生と死という大前提を共有している同じ種なのだから、あいつは自分であり、自分はあいつなのだ。

あいつは狂っているというのは簡単なのだが、その種は間違いなく自分の中にあるし、その狂人が感じているであろう感覚的なものや、高揚感を得た自分を、深い部分でロールプレイしてみたら、否定しきれるはずがないのだ。

その否定しきれない感覚をもつからこそ、人間は人間でいられるのだ。

アートのことはなにもしらないし、芸術的な感性なんて微塵もないのだけど、人の心を捕まえる作品というのは、その狂気にも似たむき出しの共通感覚を、否定しきれない深層心理にたたきつけるようなものなのかもしれないと思う。

そういう意味では死こそも美だとうけとることもできるのかもしれない。

なんか。

昨晩、今までよりも一歩踏み込んだ行動をして、湧いてきた気持ちは、保守的な心の核の部分と、それを否定する自分とのせめぎ合いであり、なにか1つを開き直って自分を否定して箍を外したら、自分の中でいままで自己防衛しながら、こつこつと納得させてできあがってきたものが、音をたてて崩れるのではないかという恐怖だったのだろうと思う。

そして、そこにもっとシンプル感情的な部分も折り混ざって。その拮抗具合が絶妙だったのだきっと。

その綱渡りのような感覚が無意識に自分に与える影響というのは侮れないもので、昨日は全くお腹空かなかったし、眠くもならなかったし、いろんなことが思い通りにいかなかったのだ。

いまだその余韻も。

完全なカロリーと睡眠不足。

でもこうやって感じる日常のコントラストと、どうにもならない気持ちを抱える経験であがったハードルはたぶん、他のなにかに置き換えることはできないのかもしれないと思う。

くわばらくわばら。


POSTED @ 2011.09.16 | Comment (0) | Trackback (0)

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