Title: フェラーリをぶっとばす。

偏った例えだとは思うのだけど、前に車好きなあの人がこんなことを言った。

男はエンジンみたいなものだとしたら、きっと女はハンドルみたいなものなのかもしれないと。

確かに考えてみれば、どんなにいいエンジン積んでても、ハンドルさばきが下手くそなら簡単に壁に激突したりして、バンパーへこんだり、ヘタしたら、いいエンジンであればあるほど、即死だってありえるかもしれない。

逆にどんなに巧みなハンドルさばきをしていたって、エンジンがポンコツだったら、エンストこいたうえに、煙をあげて動けなくなるかもしれない。

じゃあアクセルはなんでブレーキはなんだなんて考え始めたらきっとこの話はもっと奥深くなるのだろうけど、いまはそれはさておいて。

今思うのだけど、この例えのみそは。

なんていうか、きっと自分がエンジンだと思っている男と自分がハンドルだと思っている女がいて、お互いがその武器を磨きながら生きていて、いざ一緒にタイヤを転がそうと思うことが理想的なことだということなんだと思う。

いうなれば。

男は、格好ばかりで、見栄映えのいいフォルムをしていたって、エンジンがポンコツじゃ意味ないし、男たるもの心はいつも12 気筒だぜ、そんでフェラーリくらいの馬力で、いつだってすさまじいエキゾストノートを轟かせたいぜと思っていてなんぼで、いつだって最高速度を塗り替えてやるぜなんて、できればそういう自覚をもっていろということで。

女は、660馬力もいらないし、そんな馬力に耐えられるシャーシも踏み返しのきついクラッチもいらない。でもそんなエンジンを積んだ車があらわれたときに、びびって助手席に座るのではなく、660キロの速度に目をつぶることもなく、まっすぐにアウトバーンを走りこなしてみせるわ。という度胸と、癖のあるじゃじゃ馬エンジンを、巧みにいなして乗りこなすくらいのハンドルさばきをもっていてほしいということなのだと思う。

男女差別だといわれるかもしれないけど、自分は男と女は同じだとも平等だとも思ってはいなくて、男がエンジンなんか450ccもあればいいんだとかいうのはおかしいと思うし、女が時速660キロに耐えうるシャーシを求めるのだってやめた方がいいと思ってる。

むしろその違いを知った上で、男はエンジン、女はハンドルであると、しっかりと自分の道を見据えて、自分の武器を磨いていくことが大事で、そうやって割り切って自分を見据えられることで、自分に欠けてるものが明確になるし、そこではじめて誰になにを求めるべきなのかわかるような気がする。

人間のつくったフラットなんかくそくらえと思ってる。

生きることはいつだってでこぼこしてて、自分もぼこぼこのがたがたであるのだ。

それが見えなきゃ心の隙間なんて埋めようがないのだ。

いつかそんなことをつらつら考えながら、フェラーリを全力でぶっとばしてみたい。できればアウトバーンとかで。







POSTED @ 2011.06.22 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。