Title: ツイート備忘。
なんか突き詰めていくと、究極の所、守りたいと思う欲求と、壊したいと思う欲求は同じなのだと思う。つまりは守って満たされる部分と、破壊して満たされる部分は同じ所なのだと思う。

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人間は本当にどうしょうもない思い込みと、バイアスのかかった世界をすべてだと思い込んでいるのにも関わらず、平気で正義を振りかざしたり、自分はいいことしているんだと思い込んで生きるのだ。

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人間に対して、自分に対して、ホント泣きたいくらいどうしょうもない生き物だなんて、悪態をつくたびに自分には仏教があって本当によかったと思う。言葉だけのきれい事だとしても、誓願にも慈悲にも血が通うのだ。

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911から10年経っても、震災から半年経っても、人間はちっとも変わりはしないし、社会なんてそんなちっとも変わらない人間の中のたった一握りの思惑で右往左往して一瞬でどうにもなるくらいなものなんだ。

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出家するということは、生きることにそういう制約と生活しなければならないことで無意識にかかるバイアスを意識的に取り払うことであるし、そこには生きて死すということを、自分の手中におさめて思い通りにしてやるという自由への渇望も含まれているのだ。

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それは、言い換えれば、おらもうなにかに振り回されるのはごめんだぜってことでもあるのかもしれない。じゃなきゃ子どもにラゴラなんて名付けないだろう。

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苦しみは思い通りにならないことである。というのはつまりのところそういうことなのだ。生きていくということは何時だって思い通りにならない外的要因と内的要因にふりまわされつづけることなのだ。

昔はそういうことを感じるために明日消えてもいいし、明日世界が爆発してもいいなんてことを思ってたのだけど、不思議と今はそんなことは思わないのだけど、それはもしかするとどんなに願ってもかき消えることはできないし、世界も爆発しないことが嫌と言うほどわかったからなのかもしれない。

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月影のいたらぬ里はなかれども、ながむる人の心にぞ住む・・・か。

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自分は。自分以外のために仏教を学んだ事なんて一度もない。

身勝手であるまじき発言だと思われるかもしれないが、仏教で誰かを救おうなんて思ったこともないし、誰かの為に生きようとか、自分が誰かを支えてあげなきゃとかも思ったことないから、そういうことを軽々しく言う人をみると違和感を感じる。

POSTED @ 2011.09.13 | Comment (0) | Trackback (0)

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