Title: ツイート備忘。

どんなに幸せに安定した日々を送っていても、ほんの些細なことで自分の気分なんて有頂天からどん底まで落ち込むようなもので、日々綱渡りのようなものなんだということをしみじみ感じた。なにごともないってすばらしいのだ。

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ここ数日を集約すると。人間どんなに自己を見つめたとしても、メンタルなんてものは外的要因で簡単に右往左往するということと、車はMTよりもATのほうがウキウキできることが多いよっていうことと、ヤプーはすごいってことなのだ。

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エアコンを消してあちぃあちぃといいながら一日テレビを見て、自分ってば節電してると思っても、実際はエアコン付けてテレビ消したほうが節電になるらしい。ということを絡めてお彼岸の法話には軽く悪人正機に触れようか。

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なんかここ数日自分をみていて、改めて人間のどうしょうもなさとか、どうしょうもないけど、どうにもならないこととか、どうにもならないのにどうにかしようとするのとか、そういうのがよく見えた。それを凡夫という言葉を使わずに説明できる?といわれてはっとしたのだが、凡夫ってすごい単語なのだ。

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凡夫だからなにをしてもいいといってしまえば本願ぼこりなのだ。そうではなくどんなに安穏と生きようとも外的内的要因で常にそうはいられないのが人間なのだという自覚を持って、自分の中に湧いた感情を冷静に法にあてはめてやり過ごす術を身につけていくというのが、真宗的な生き方なのかもしれない。

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でもそう考えると真宗において、苦をどううけとめるかということがポイントで、克服するでも、忘れるでも、他の何かに置き換えるでもなく、それと同居していく覚悟というか、嫌でも同居せねばならないのが既存設定だという自覚とあきらめみたいなものが結局のところ彼岸への鍵になっていくのだろうに。

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なんかお彼岸やお盆が近づくと法話を考えねばならないという深層心理からなのか、ついつい現実と仏教を結びつけてしまいがちなのだ。それもある種のとらわれみたいなもので、そういうことを続けていると簡単に凡夫とかいう言葉ですべてを片付けてしまいそうになるから気をつけねば。

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なんか改めて考えると、凡夫とか本願とか、阿弥陀としか表現できないものを簡単にそこに括ってしまうのは、それはそれで大事なのことなのだけど、それが慢性化すると、それが何であったのかという本質が失われてしまう気がする
し、

そうすると親鸞聖人が山から下りたという根本的な意義まで薄れてしまうような気がした。社会の中に生活があり、生活の中に人は生きていて、人の生きているところにこそ苦しみがあるのだ、凡夫を救おうとする阿弥陀の本願によってあなたは救われる。なんて言葉をキレイに吐いても誰も救えないのだ。

そこにもっと実感を伴わせて、血の通った凡夫であり、血の通った阿弥陀の本願を、血の通った言葉で表現できるようになりたいものだ。


POSTED @ 2011.09.19 | Comment (0) | Trackback (0)

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