Title: バケツの水。

とある学校の校長先生が新年の挨拶で生徒に向けてこういったそうだ。

シベリアの刑の処罰は、二つの中からどちらか選択ができます。ひとつは、シベリアの寒い郊外でのレンガ運びなどのつらい肉体労働です。もうひとつは、室内の一室で、バケツがふたつあり、その一方には水が入っています。その水をもう一方の空のバケツに水を移すのをただ繰り返すというものです。 

皆さんはどちらを選びますか? 

そこでは圧倒的に室内の作業を選ぶものが多かったそうです。きっと皆さんもそうでしょう。しかし、室内の作業を選んだ者たちは自殺者が多数出たのです。室内の作業を繰り返す内に、その行動の意味を考え、意味があるのかと人は考えるのです。反対に肉体労働はつらいですが終わった後の達成感があります。わたしは、人は、目標や目的、あるものに向かっていく動物なんではないだろうかと思います。 

この話をきいて、なるほどと思って、目に見える目標に向かって達成感をもって進んでいくこと。ということを高校生に伝えるためにはなんて素晴らしいはなしなんだろうと思った。

でももう一歩踏み込んで考えてみると、宗教にかかわる人間としてはひっかかる部分もあるのだ。もっといえば、宗教を扱うと言うことは、どちらかといえば、2つのバケツの水をもう一つのバケツに移す作業を肯定し、自らもそれを繰り返すようなものなんじゃないかと思う。

目の前にある目的や、達成すべきラインを目指して足を動かしていくことってすごく大事だし、それを否定してしまうと原動力はなにも生まれないのだけど、これは人生のフェーズにおいての問題なのだろうと思う。

10代20代においては、達成感や目標を目指す意欲は絶対必要だと思う。だから高校生にこの話をするのは素晴らしいし、すごい校長先生だなと思う。

しかしそれは最終的なところではなくて、あくまでプロセスなのだと思う。目に見えるわかりやすい目標や、達成感だけで満足してしまうと決して見えないものがある、ということに気づくか気づかないかということは、その後30になり40になり、50になり、60になり、死が眼前に近づいてきたときにとても重要なことなのだと思う。

いうなれば。

いやがおうにもバケツの水を入れかえる作業をしなければなならないのが人生である。と宣言した上で、バケツの水を入れ替える作業の中で、作業の意味や生きる価値などを考えた時に死にたくならないように逃げ道を作るのが宗教の役割なのだ。

ほっておいても、年老いて老化して、頭と身体のバランスが崩れる時が来る、頭でおもった所まで足が上がらなくなる時が来る。宗教はそこにこそ価値を見いだすのだ。

この話をきいた高校生が、血気盛んに社会にでて、現実や壁にぶちのめされて、部屋の中でバケツの水を入れ替えることを強要されたときに、そこにある価値を見いだす心と、そこにいる自分にのりしろをもつ心を忘れないほしい。

なにごとも、メリットにはデメリットがくっついてる。

光には陰も。

それを仏教では一如と表現する。

光だけを放つ話も、光だけあたる価値も概念もこの世には存在しない。

それと、この話に絡めていうなら、宗教を扱うということ、もっといえば僧侶の姿としては、進んでひたすらにバケツの水をいれかえることを続けて、それを投げ出さずに最後まで続けるということが理想的なんじゃないかと思う。

そこでしか見えないもの、そうやって向き合わなければ捨てられないものがあるんじゃないかと思う。

出家とはそういうことなんじゃないかと思う。

インドには、ひたすらに立ったままでいたり、太陽を見続けたり、手を上げ続けたり、座っているだけという修行をしている人がいる。禅の世界には、只管打座というひたすら坐禅する修行があるし、ひたすらに箒を振り続けて悟った周利槃特もいる。他にも仏教には意味考えるということを放棄させるような教えがたくさんあるのだ。

それはなぜかと言えば、意味というのは執着だからなのだと思う。

誤解を恐れずにいうならば、バケツの水を入れ替え続けて自殺をしてしまった人達は、執着によって死んだのだ。その執着を捨てるための方法を仏教では説く。そしてその法を自分の生活の中で感じながら、今の社会、今の現代に合わせ、目の前にいる人に的確な言葉と方法で、説くのが僧侶の役割だと思っている。

POSTED @ 2012.01.11 | Comment (0) | Trackback (0)

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