Title: 吊り橋。


例えば、自然があふれるとても綺麗な小さな村があって、その村には今にも落ちかけている吊り橋が架かっているとする。

便利な大きな街に行くためには、どうしてもその吊り橋を通らなければならないとする。

でもとても危険な橋なので、その橋を渡ろうとすると転落して怪我をしたり、時には命を落とす人もいるとする。

この橋をはやく直してもらうために、村の人を集めてこの橋を作った王様の所に通って、大きな声ではやく橋を直してください!と主張を続けるのも1つの道だし、王様の所へいく仲間を一生懸命あつめることも大事な事かも知れない。村の自然のすばらしさを多くの人に知ってもらうこともきっと必要だ。

そして、それと同時に、その橋から転落して命を落とした人を弔うために崖を降りて骨を拾う人間が必要だし、橋から落ちて怪我した人を治すために奔走する人も必要なのだ。

これは例え話なのだけど。

僧侶として自分は後者でありたいし、苦に向き合うといういうことはそういうことだと思っている。

目をこらしてみれば、今日電車でとなりの隣の席に座ったおじさんも、キヨスクのおばさんも、本屋のおねえさんも、自分の親も、子どもも、友達も、家族も、そして紛れもなく自分も、みんなその橋から落ちてるのだ。

目をこらせばこらすほど、みんな傷だらけで、うかうかしてる余裕なんてないくらいに、自分の身近な人達が傷だらけだったと気づくべきなのだ。

自分や家族が自分の親しい人が、出血多量になるなんてことを思えば、自分のすべきは橋の修復ではなくで止血なのだと思ってる。そしてどうやったらうまく止血できるかを考えることこそが誓願なのだ。

生老病死は今この瞬間も自分に差し迫ってきていて、自分の大切な人ののど元に迫ってきているし、そこに向き合うことが僧侶としてなによりも大切な事であるし、そこにある苦に気づかずして他人の苦が理解できるはずなんてないと思ってる。

例えそれが、焼け石に水だとしても、今自分の手の中に仏法があるということは、そうやって焼け石に水をかけ続けてきてくれた人達がいるから脈々と法統が続いているのだし、自分の役割はその一端で、焼け石に水をかけることだと思う。

それと、隣国で大きな戦争が起きたとする、そこで多くの人が負傷をして、多くの人が家を家族を失っているという話を聞いたとして。その事実に心が痛いし、できることなら駆けつけて自分のできることをしたいと思ってる。

でも今の自分は崖の下にいる人達の骨をそのままにしていけないし、自分本位で器の小さな考え方だけど、自分の止血をやめるわけにいかないし、自分の身近なところにいる人や、ここまで生きてくる上で支えてくれた人の止血を優先させたい。それが必ず誰かを生かすと信じてる。

正直そんな自分でごめんなさいと思うこともあるのだけど。

今自分信じる仏教というものはそういうことなのだ。

これは時間をかけてできあがった自分の味わいであり御了解の集大成なのだ。

むしろこの想いががらりと変わるような言葉や、出逢いや体験があったとしたらはやくそれに出会いたいし、その時に、今ここで感じていたことが通過点だったのだと感じることができたらどんなに幸せかと思う。

追記:このブログを書き終わってから思ったのだけど、そもそもその橋が新しいものに架け直されて、新しい安全な橋ができたとたんに街から人が流れてきて、いままであった村の自然がなくなるってことだってありえるのだよな。






POSTED @ 2012.06.21 | Comment (0) | Trackback (0)

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