Title: おのふ。
なんだかんだ一人で全部こなしてやるんだなんて、息巻いて、はったりこいたって結局の所誰かに助けられて、行き詰まって一人もちゃってたって大声でそれを吹き飛ばすのはいつだって他人だったりするのだ。
言葉に捕まりすぎだなんてえらそうにいっておきながら、いつだって言葉に捕まっているのは他でもない自分なのだ。
結局はいつかは死ぬのだし、感情なんて一時の高ぶりなのだから、そんなところで右往左往したり、永遠を約束するなんて散臭い行為だなんてうそぶいたって、こころのどこかでは、そんな胡散臭いものを渇望しているのだ。
ほんと裏は表で表は裏だな。
某ネズミーランドが大好きだという人はある意味では、ものすごく現実的でリアリストなのだろうと思う。現実と夢の区別がしっかりできていて、自分のonとoffもしっかりできるりっぱな大人なのだ。
一方作られた夢の国を穿った見方をしたり、ネズミーマウスなんて中に人間がはいってるのさへへんっ。なんていってる人ほど心の奥底に、曇りないロマンを追い求めてるロマンチストなのだと思う。
それと完全な仮説なのだけど、ネズミーランドが好きな人とワンピースが好きな人は結構な割合でリンクするのではないかと思う。
それと。
攻め上手がSで、攻められ上手がMかといえばそうじゃない。
攻めてるときに、満たされるものが必ずしもサディスティックな面かといえばそうではないのだ、それに一方的に攻められているときに満たされる面も必ずしもマゾスティックな面かと言えばそうではない。
最近つくづく目に見えるものと本質は反比例しているのだなと思う。
だからこそ人間はおもしろいし、だからこそ人間は時にどん底まで落ち込むのだろうと思う。
でもなんてこたない。
ルールと仕組みがわかれば人間なんてそんなにやっかいな生き物ではないし、それほど複雑な生き物ではないのだろうと思う。それをややこしくしてるのはいつだって自分の願望と妄想なんだって。
*
朝から子どもたちと稲刈りをする。
んで、地べたに這いずり回ってしこたまバッタをとる。
20匹くらいつかまえて、虫かごに押し込む。
地べたにはいずり回るまでは、寒いし、こんなにくそ忙しいときに、なんで自分がこんなことをしなければならないのだ・・・とぶつくさ文句をいってたものの、1日が終わって、泥だらけの爪と靴をみてたら、いろんなものがこそげ落ちたような気がした。
なんか良寛さんみたいに、生きていくのも悪くないなとか思う。なんか10年前の自分では考えられないのだけど、最近幼稚園があってよかったなと思うことが多いのだ。
嫌で嫌で、どうにも投げ出したくても、投げ出せる状況じゃなかったからこそここまでこれたし、だからこそわかることがあるのだ。子どもの持っている感性や感覚や、物事への取り組み方やベクトルの柔軟さも、どこをすっぱ抜いたって、気づかされることだらけだと思えるようになったのは、自分にそれだけの視野が身についたからなんだろうと全く謙遜することなくそう思う。
大げさなようなのだけど、こないだ子どもたちと遊んでいるときに、ああこれはこれでみんな阿弥陀さんみたいなものなんだろうなと思った。そう考えたら、阿弥陀さんってどこにでもいるし、あるし、究極どれでもなんでもいいのかもしれないのだ。本願に届けば、すべては今現在説法なのだと思う。
ちなみに。
子どもはいいよ。純粋で無垢でなんていうキレイことだけを言いたいわけではないのだ。
子どもは時に大人よりも残酷で、捕まえたバッタの虫かごにカマキリをいれて、食べられる様をみんなで観察したりしながら、やはりお腹が一番おいしいのだろうねなんて言い合ったりする。それに平気で嘘もつくし、気に入らない奴は簡単に殴ったりするし、お世辞もくそもない、思ったままに思ったことを口にして平気で人を傷つけたりもする。
むしろそういう部分を持ち合わせているからこそ、学ぶことができる。
そして純粋と無垢という言葉はそういう部分を持ち合わせてはじめて成り立つのだということがいいたいのだ。
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氏くんの歌ってる夕暮れをたまに聞き直すのだけど。
聞けば聞くほどにいい歌だと思う。
きっとそれは清水口っこだからなのだということも深く関係していると思うのだ。
なんか根源的に、あの頃に培われた感性や、人との関わり方とか、距離感とかは、無意識の中にも存在してるのだきっと。
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年をとったり世代が交代したら自分の居場所がなくなるのではなくて、年をとったり世代交代をすればするほどに必要になってくるものをいま身につけておきたいのだ。
んで。
あわよくばしょぼくれても洒落とウイットにとんだ毎日をすごしたいのだ。
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神楽坂も冬の装いになってきて、お品書きにもウキウキするような文字が躍り始めているのだ。こうやってまた季節の変わり目をこの街で旬を食べながら感じることができて嬉し。
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やっぱ。
わかった気になってはすぐに忘れて、それを何度も何度も繰り返してきているのだけど。
結局、事実にはいいもわるいもないのだ。
悪い結果も良い結果も、それは縁のなせるわざで。
考えても考えなくても、がんばってもがんばらなくても、どこに立っていて、どこでどんな境遇にいたって、苦しいことも嬉しいことも同じように訪れるだけなのだ。
ただ流れていればいいのだな。
ぷかぷかと。
どこにいくかやない。
流れたところがいくべきところなのだ。
*
自分の欲望や、算段や、もっといえばずるがしこい部分に敏感であると言うことは、同時に他人のそういう部分にも敏感であるということなのだろうな。
自分のなかにある闘争心みたいなものともっとうまくつきあえるようになりたい。
頑なとか頑固とは別の部分で、理解されないことに屈さないで歩いて行ける人だけがみえる世界があると思うし、万が一にもそこがみえるなら見てみたい。
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やっとかけた。
この一言にここ数週間は集約されるといっても過言ではない。
POSTED @ 2011.10.19 |
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