Title: ここではない場所。
自分の場合、文字を生み出す場所というのは、現実世界とは少しずれた場所にある。その場所が久しく遠くに感じる。
現実とはつまりは、税金の支払いであったり、給与の振り込みであったり、健康診断の結果であったり、締め切りの迫る書類であったり、いわば、
「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり
「生きていくためにこなさなければならないこと」の延長にあるような類のことだ。
その「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」を片づけると、それはそれなりに達成感もあり、充実感も得られるので、その充足感を得ては休息し、そしてまたその現実の問題を粛々とこなしていくというのがルーティーンになってくるのだけど、
その生活の中でどうしても満たされないものがある、それは
「どこのだれのためにもならないけど心地のいいこと」であったり、
「それがなくても誰も困らないけど、わくわくする時間」
のような類のものから得られる、自分の中にだけ生まれる小さな満足感だ。
あってもなくてもいい時間を自分のために費やすということ、そこに満足感を得るということの大切さに年をおうごとに気づかされる。
自分を自分たらしめるものは、きっとそこにある。
なぜ年をおうごとに大切なのかといえば、年をおうごとに、自分を自分たらしめるものの前提が、「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」の中から生まれてくるからだ。
昔はそこに境目なんかなかったのだけど。日に日にその間にある溝のようなものが深くなる。
そこから生まれてくる、「自分を自分たらしめるもの」というものも、間違いなくその瞬間の自分であることは間違いなのだけど、これから5年10年して、または20年30年生きられたとして、その時の自分を自分たらしめるものが、そこから生まれたものだけで満たされている自分というものに、一抹の不安をぬぐいされずに、その小さな棘が何年も心に刺さったままになっている。
自分らしさとはなんだろうと。
ここにきて、その問いが頭と心に薄い膜をはったかのようにまとわりつく。
でも、本当は答えはわかっているのだ、それは「こうあるべき」自分の世界から脱却であり、もっと世界は自由である実感を得ることなのだ。
そこに付随して自由から得られる痛みや孤独を我がものにすることなのだ。
まえにまえに。
POSTED @ 2020.05.10 |
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