Title: eneru
エネルギーには2種類がある。
内側から湧いてくるものと、外側から流れ込んでくるものだ。
その内から外から湧いてくるエネルギーを心のどこかに貯めておきながら、
それを補充しながら、なみなみに満たされている状態がベストなのだけど。
そのタンクには、3分の1ぐらいのエネルギーしか満たされていないのに、
内側からも湧いてこず、外側からはいってくるものも十分に取り込めず、
空炊き状態で、その熱くらってやられちゃうときもある。
むしろ、年を取るということのデメリットに、省エネでも動けるということがある。
いやむしろ省エネでしか動けなくなるのだ。
なみなみに満たされた燃料はむしろその重みに燃費を悪くする。
軽い状態で省エネ運転するのが負担が少ないぜなんてことを、
頭ではなく、身体が自然とこなすのだ。
使わないものは衰える、身体も心も、感性もすべてだ。
それを使うにはエネルギーがいるのだ。
それをどうにかいれなければいけないのだ。
タンクがさび付く前に。
*
何年かぶりに、ぷちっと次のステップに上がる手ごたえを感じている。
ずっと、ここ何年か、同じ場所でずっと足踏みをしながら、なにもかもに焼き直しをしながら、
自分の今持っている技術や武器や能力を再確認しながら、
その使い方を持ち方を、衰えるなりの素振りに、姿勢に、体勢に適応させようと、
ひとつひとつの動作を所作を、丁寧に確認する作業をしてきたように思う。
自分の勝ち筋、自分のルーティーン、自分のパターン、
その中で力でねじ伏せることで、成し遂げてきたことを、
いかに力を使わずにおなじ道筋をたどるか、
そこに注力してきたように思う。
そこで気づかされたのは、
力まずとも、力をだし、
力をだしつつも、力まないコツ
のようなものであり、
そのコツの一番深い部分にあったのは、
言葉にするととても陳腐な響きなのだけど、
自分を信じ、頼り、そしてなによりも、自分の範疇を手放すことなのだなと。
そして、人は一人では生きられないけど、
でも現実は一人きりなのだという事実を、
喜びをもって受け止めることなのだということだ。
*
あれやこれや、こねくりまわして紡ぎ倒して、
結局のところでてくるのは、
あの頃と何ら変わらない、
青臭いものでしかないのだ。
でもそれをもう青臭さとは呼ばないことにした。
*
悔いはない。後悔もない。
思い残すこともない。
と、心から信じて疑わない精神状態の時こそ、
ものすごい執着が心の中には渦巻いていて、
結局のところ、人間てものはつくづく人間なのだなと、
その業の、執着の深さには、
いまさらながら、まさに救われることでしか救われないわと、
その実感が自分のものになりつつあるような気がする。
*
なかなか引きはがせなかった。
おもいっきりに力ずくでひっぺがそうとしてもはがれなかった、
日常とか、今とか、そういうものに癒着する自分を、
無理やりにでもはがしたかった。
それは旅であり、言葉であり、曲であり、海であり、夏であり、匂いであり、夜風でもあり、
愛でもあり、塀の上をあるくことでもある。
無理やりにでも時々ひっぱがしておかないと、はがれなくなって、一体化して、
自分が、今に、日常に、一体化してしまうような怖さがいつまでも拭い去れなくて、
それはもう躍起になって、べりべりと、かさぶたのようなところから血が出ても、
力ずくではがさねばという焦燥はどこからくるのだろうかと、
自問自答する。
自問自答しながらも、ありとあらゆるものに頼り、ひきはがそうと試みる。
散々そんな抗いを続けてみて、もうほとほと疲れて、
息をついて、もういいやと、このまま自分がどこに埋もれて消えていってもいいやと、
開きなおってみると、みるみる沈んでいって、
沈み始めてる最中には、焦りや、怖さや、どうにもいえない苦しさの中でもがいたりもしたのだけど、
もがく力も失って、底まで落ちてみたら、
なんてこたない。
そうかそういうことだったのかと。
結局のところ、年を取ることと、ひっぺがせないことの相関関係もよくわかって、
そこに気づかされたら、なんてこたない。
そういうことだったのかと。
おもしろいもんだな。
堂々巡りして、同じところを、同じじゃない自分が堂々とめぐるのだ。
*
身体も、心も、手も足も、頭も、
いままで共に生きてきたこの五臓六腑は、
思いのほか、自分をしっかり自分たらしめているのだなと。
いままで、それを全部使い倒してやるつもりだったけど。
決してそうじゃない。
この五体、五臓六腑は、
まぎれもなくどこまで行っても、
自分を自分たらしめるものを、
自分よりも覚えているものなのだな。
POSTED @ 2019.08.06 |
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