満開に気づけないうちに、
いつのまにか舞い散り始めた花びらを見上げ
ふと立ち止まる。
志村けんのことを思うと、
幼少期の記憶であったり、家族の記憶であったり、
大人になる中で思い返すことも少なくなってしまった
「あの頃」の記憶が次々に呼び覚まされる。
その記憶が心の奥底にある柔らかい部分に触れて
なにか温かいものが流れ込んでくるような気持ちになる。
数年前に、自分が子供の頃に腹を抱えて笑い転げていたのと同じように、
自分の子供たちが、バカ殿を見ながら腹を抱えて笑っているのをみて、
なにかとても嬉しくなったのを覚えている。
間違いなく、自分は志村けんの笑いの中に育ってきたし、
変なおじさんも、だっふんだも、アイーンも、
これからも記憶の中にずっと生き続けるのだと思うし、
「あの頃」を共有できるたくさんの同世代の仲間の中で、
いつまでもこの笑いは消えることなく続いていくのだと思う。
感謝。
*
様々な情報や想いがあちこちで交錯して、
そのひとつひとつに、脊髄反射で心揺さぶられ、
いろいろなところが疲弊する毎日なのだけど、
先日ひたすらに土いじりをしていて思った。
目に見えぬ不安や、
日々変化する情報や
様々人たちの思惑や
反射的にわいてくる感情、
そんな形のないものに日々さらされ、
なにか心が疲弊している時には、
感触とか、体感とか、感覚とか、
五感を伴って、今自分の中に感じることのできる、
確かなものをしっかりと味わうことで、
心が少し落ち着いてくるような気がする。
心がふわふわしたら、鉢植えでも植えたらいいんだ。
皮肉にも今になって、
日常がいかに砂上の楼閣、
些細なことで簡単に一変してしまうのかということを痛感して、
あたりまえこそが、かけがえのないものなのだということを再認識したり、
誰かを想い、支え合おうとすることの温かさに触れたりして、
人間のいい面も悪い面もごちゃまぜのこの世の中で、
五感と感性と愛だけはロックダウンできないぜ。
などと嘯きながらフラカンを聴き、
昼間の高速を走る日々です。
今切実に望むことは、居酒屋で笑いながら、
生中を飲むことです。
だっふんだ。