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「目に光が灯る」という言葉がある。

若い時、なにかを形にしようと、何かに向かって頑張ろうと思う時には、気合いを入れて、身体のどこかに力を入れて自分自身を奮い立たせ、内側からみなぎるエネルギーを四肢に込め、全身で力を、勢いを想いをあふれんばかりに吐き出そうとしていたように思う。

それは思うに、それは自分の力でなにかを捻じ曲げてでも、ねじ伏せようという力なのだったと思う。

それから、いろいろなことを経験し、「頑張る」ということの素晴らしさも、残酷さも、喜びも怖さも感じてきて、最近思うのは、なにかを成し遂げるときに必要な力は、五体四肢に込めるだけではなくて、目に灯しておかなければならないのだということ。

全身に青あざを作り、汗流しながら必死に髪振り乱していても、目に灯る光が消えかけてしまったら何も進まない。
もう立ち上がれないと、心も身体もくたくたになったとしても、目に灯る光が消えなければ必ず先に進める。

いろいろな人を見ていて、どんなに熱く夢や希望を語っていても、なにか目に見える形を残している人でも、目に光の灯ってない人たちがいる。小手先だけで形は整えられても目の光は嘘をつけない。

逆になにをどうして始めていいのか、どうやって前に進んでいいのか迷いに迷っていても、目にしっかり光の灯っている人がいる。

その差はとても顕著なのだということをまざまざと感じた夏だった。

目に光を灯すために、自分に何が足りないのか、なにをみて、なにを感じて、なにを発して、自分自身の様々なフェーズの中で、右往左往翻弄される中で、いなし、逆らい、流され、おぼれかけながらも、目に光を灯せ続けられるように、もっと自分の取り扱いを、変わりゆくことを恐れずに、楽しんでいきたいと思う。

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つくづく、自分の中のおぼろげな仏教が、
ことあるごとに、あぶりだしてくるのが、
「人間の分限」を知るということ。

分限というのは、限界とは違う。

分限はすなわちそれは、手を放すことなのだと思う。

そして手を放したときに、救われるしかない自分の現実というものが、
諦めや敗北とは違う意味で、すごく心の中の、
どうにも人の中から生まれてくるものだけでは埋めきれない、
重箱の隅のような部分を満たしてくれるような実感を感じている。

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「夏にしか感じられないこと」は自分にとって特別なことなのだけど、
それはいつも同時に、冬にしか、秋にしか、春にしか、そして今日にしか、
今にしか感じられないことがあるということをまざまざと教えてくれる。





POSTED @ 2019.08.27 | Comment (0) | Trackback (0)

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