Title: しょかん
2026.01.04

2026年になったそうだ。

1999年の夏、なにかが空から降ってくるのではないかと戦々恐々、京都の小さな部屋で、パソコンに向かっては夜の11時になるのを待っていた日々からもう27年が過ぎたそうだ。

光陰矢の如しとはよくいうけれど、矢が飛んでる速さを目の当たりにした経験があまりないから、自分がいままでの人生の中で目の当たりにした早いものを思い出してみたら、すぐに浮かんできたのは吉本の50m走と、小樽で乗った赤いAudiのスピードくらいしか思いつかないのだけど、その時と同じくらいに日々の流れの速さに慄く。

そして、新しい年を迎えたかと思ったら、あと数日もすれば、齢四十六歳になろうとしている。
(昔みた手塚治虫の書いた男の一生の図解でみたらもうロマンスグレーと呼ばれているではないか)

宮崎駿が「となりのトトロ」を発表し、イチローが現役を引退したのと同い年だそうだ。
ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を完成させたのも46歳だそうだ。

ここ数年の自分を顧みるに「トトロ」や「最後の晩餐」を完成させるような迸るようなパッションにあふれるような日々を送れてはいなかったかもしれないし、今すぐイチローと同じように引退するつもりもないけれど、それなりに歯を食いしばりながらも、時代に食らいついてきたつもりだし、いつかくる余生というその時を、昔よりもリアルに夢想したりするようにはなった。

40歳も半ばを超えて思うのは、つくづくいろいろなところがポンコツになるし、油をささないと動かない箇所も増えてくるし、心身ともに「普通」である状態を維持するのに、労力と時間とお金をかけないと難しくなるということだ。そういう物理的な抵抗と、もうひとつ専ら自分にとって立ちはだかってくるのは「億劫」という名の敵対勢力だ。

書くのが億劫になる、話すのが億劫になる、会うのが億劫になる、考えるのが億劫になる、創るのが億劫になる。

様々な場面で、この「億劫」という名のデモゴルゴンが立ちはだかってくる。

ここ数年の勝率は概ね4勝6敗くらいかもしれない。

億劫と戦いながらも、疾走する赤いアウディのようなスピードで過ぎていくこの時間の中で、日々は刻々と変化をしている。

昨年は、嬉しい変化も、悲しい変化も、わくわくするような変化も、寂しい変化もたくさんあった。

まだまだ消化しきれない想いはたくさんあるけれど、その変化のひとつひとつで立ち止まりながら、
これがつまりは「生きる」ということなのだなということを実感した。

生きるとはつまるところ、白旗降ってその変化を甘んじて腹で受け止めていかねばならないという事なのだろう。
だとしたら本当に生きるということは、骨の折れるやれやれな作業だと思う。

これからも訪れる様々な変化の中でもっとタフにありたいものだ「もっとタフに、そしてしなやかに」これがアラフィフに臨むためのテーマかもしれない。

いつだって、タフでいるということは、簡単なことではないけど、いつでも「のんきなおじさん」でいられるように、できることをひとつひとつ丁寧に。

そしてデモゴルゴンとの戦いに、せめても6勝4敗で勝ち越せるような1年にしたい。

今年もがんばる。生きる。



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Title: 斜年
2025.11.11

思考の柔軟性は、その人の行動量に比例するという話を聞いたのだけど、
それは、つまりは柔軟でない人が、行動したら思考が柔軟になるというシンプルな話でもないのだろうなと思う。

柔軟な思考を持つ人が、様々なパターンや、行動理論をさらに学ぶために、足を延ばし、見分を広げたいという欲求が増すことはあるのはその通りなのだと思うけど、望むべくして、足を延ばさずにいる人が、なるべくして思考が凝り固まっている場合ということが往々にしてある。

行動量の多さは、自己肯定や自信の深さにも比例していて、ある種の強さのようなものを持ち合わせていないと、行動量は増えないもので、それはなぜかと言えば、行動量を増やせば増やすほどに、そこに生まれるのは多くの「比較」であり、それは自己と他者でもあるし、価値観の相違でもあるし、さらにいえば、それは上下でも優劣でもあり、その現実を客観的にも、主観的にも突き付けられることだからだ。

それは、行動量を増やさないことが、自己防衛でもあり、自己保身である場合、行動量が少ないから思考が凝り固まっているのではなく、凝り固まった思考の中でこそ自分が息をすることがいるから行動量を増やさないのだ。

年をとって思考が凝り固まってしまうのは、行動量を減らすことで、機能の鈍ってきた脳の現実を、客観的に比較の中にさらさないための知恵なのかもしれない。


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Title: kotoba
2025.10.15

紡がれる前の、輪郭のぼやけた思考に、
くっきりとピントが合いはじめて、
それをしっかりと、言葉で捕まえられたり、捕まえられなかったり。
捕まえられないことに慣れてしまわないようにと自戒。

*

言葉が紡げないことに、あれやこれやと理由をつけてみるのだけど、
そのどれもピンとこなくて、
本当の理由は何なのかと考えあぐねる。

決して思考が停まったわけではなく、
自分の中に蓄積したたくさんの資料も、考え癖も、
深く、多面的に、そして本当の意味での人間の真理みたいなものに近づいている実感もある。

でもその過程の中で言語化することで、そこに在る真理と、言語の間に、
なにか心地の悪い、すわりの悪い齟齬のようなものが生じて、
その溝を埋めかねることの気持ち悪さが、
言語化することへのハードルとなっているのかもしれない。

なんて。

見えるということはややこしいことで。

見えているということは、見えていると思い込んでいることでもあるし、
結局のところ見えているもののほとんどは、その裏の膨大な見えていないものの一角。



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Title: 映画『PERFECT DAYS』とノンフィクション『酒と涙と女たちの歌 3』を観た日
2025.02.12
映画『PERFECT DAYS』とノンフィクション『酒と涙と女たちの歌 3』を観た日

「こんなふうに生きていけたなら――ヴィム・ヴェンダースと役所広司の美しきセッション」
映画『PERFECT DAYS』の紹介文にはこうある。

確かに、序盤は役所広司演じる平山の変わらぬ日常、その静かで慎ましい生きざまが心地よく映る。変わらない生活の中にある小さな幸せ。そのあり方は、固定観念からの解放であり、「こういう生き方もあるのかもしれない」と思わせる。

だが、物語が進むにつれ、その日常がどのようにして形作られたのかが見えてくる。諦観と悲哀。人生の思い通りにならなさ。混沌と滑稽さ。そうした清濁併せ持つ矛盾こそが『PERFECT DAYS』なのだと、ラストシーンの平山の表情が物語っていた。

この映画を観た後、多くの人が「こんなふうに生きられたら」と言う。
けれど、その生活の美しさは、平山の視点の深さにある。その視点は、今の生活の中で自然と培われたものではなく、喪失を経ることでどうしても獲得せざるを得なかったものなのかもしれない。

あの深度で世界を見られるようになるためには、ある種の喪失が必要なのではないか。
ふと、アウシュビッツを生き延びた人の手記にあった言葉を思い出す。

「小さな幸せを見つけ、前を向く力にしていました。どんな環境下にあっても、悲観して絶望せず、淡々と目の前のことをできる人が、一番したたかなのかもしれない。」

人が普段目を向けないような場所にこそ、本当の美しさや真実がある。そして、その美しさに気づくことは、何かと引き換えなのかもしれない。あるいは、その「小さな幸せ」すら、生き抜くために生み出した幻想なのかもしれない。

たとえ幻想でも、人は幻想を生きる糧にする。

幻想だと気づかずに握りしめる人もいれば、幻想だと知りながら、それでもなお握りしめる人もいる。

「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある。」

平山の言葉には、そうした分断された世界を認めつつ、自分の立つ場所を見極めようとする意志が感じられた。

そんな『PERFECT DAYS』を観た夜、私はもう一つの作品に手を伸ばした。

「酒と涙と女たちの歌 3」

番組の紹介文にはこうある。
「トタン張りの小さな建物が肩を寄せ合うように立ち並ぶ飲み屋街。茨城県日立市の国道沿いに、まるで終戦直後にタイムスリップしたような佇まいの不思議な一角がある。12軒の小さな店が並ぶ『塙山キャバレー』。ここには、様々な事情を抱えた客が夜な夜な集う----。」

店に立つママたち、そこに通う客たち。人生の岐路で行き場をなくした者たちが、静かに息をついていた。

『PERFECT DAYS』で感じたことが、ここでも重なっていく。
幻想だと気づかずに握りしめる人もいれば、幻想だと気づきながら、それでもなお握りしめる人もいる。

その幻想が持つ無条件の寛容さに、人は救われる。
それはもはや、宗教のような深さにも近い。

「きれいごとだけでは世界は回らない。だが、きれいごとがなければ、世界は回らない」

この二つの作品を同じ日に観て、心の中にあった点が線になるような感覚があった。

結局のところ、何が言いたいのか。
『PERFECT DAYS』も『酒と涙と女たちの歌』も、人間が前を向いて歩くためには「理由」が必要だということ。

そして人は遅かれ早かれ、多くのものを喪失していく。その喪失の中でしか見えない世界がある。

カメラのF値のように

最初は、すべてにピントが合っているように見えていた。しかし、喪失を重ねるたびにF値が下がり、背景はぼやけ、やがて目の前のほんの小さなものだけが、くっきりと浮かび上がるようになる。

最後にはF2.8、いや、F1.4くらいにまで絞られた視界の中で、名もなき草花にフォーカスがぴたりと合ったとき、人は、それを「美しい」と呼ぶのかもしれない。

その「美しい」が、最後の最後で人が人を持ちこたえさせる「理由」になるのだ。

皮肉を言うつもりはないけれど、『PERFECT DAYS』を観て「こんなふうに生きていけたなら」と言う人の多くは、F32のレンズを首からぶら下げながら、そのレンズでは決して撮ることのできない一枚の写真を見て、「あんな写真が撮りたい」と言っているようなものだ。

それでも、人はその美しさを我がことのようにロールプレイし、一時的な逃避を繰り返しながら、それでも毎日を生きていく。

そう考えれば考えるほど、人間の不確かな脆さが浮き彫りになってくる。
でも、人間の不確かで脆いからこそ愛おしく、おもしろい。

そんな不確実で不安定な人間のありのままの姿が生み出す寛容さのようなものが、結局のところ、一つの救いのようなものにつながっていくのかもしれない。

なむなむ。
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Title: シアワセノカケラ
2025.01.26

自分の色や、匂いや、頭の断片を、自分なりの表現で、言語化し、映像化し、そしてそれをさらして誰かに伝わるまでのそのプロセスの中に自分の心地よさの多くが詰まっている。

なにを満たすためにとか、何を目的にしているのかとか、

理由と呼ばれるものにぴんとくるあてがないのだけど。

つくることの中には、きっと自分自身を表現することが含まれていて、
どんな形であれ、その具現化された自分が、

この世に凝固するということに、

多かれ少なかれ、人は快感に近いものを覚える生き物だということなのだと思う。

その根源的な欲求を、小さく小さく満たして、

好きなものに囲まれて暮らしていくために、

すこし余剰にあるものを手放しながら、

すこしでも多くの好きをかき集めていこうと思う。


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Title: サバシスター
2024.08.21

つくづく自分の原動力となっていたもの、もっといえばエネルギーそのものになっていたものは「青臭さ」と呼ばれる類のもので、それは何かに対する無条件の反抗や、無条件の拒絶や、一方的な正義感だったり、よくわからないけど、目に見えたものだけをかたくなに信じられる偏った真実だったのだということを思い知らされる。

そこから湧いてくるエネルギーはただただ何とか融合のような熱量があった。

その有り余るエネルギーを外へ外へどうやって放出してやろうかと、意識的にも無意識的にも、内側から外側へ向けて放ちながら、曲がりなりにも成長してきたつもりで。

十把一絡げにするつもりはないが、自分たちの世代は、あまりにも「友情・努力・勝利」を掲げた少年誌や「勇者」という絶対的な価値観とか、どんな逆境にも立ち向かうサイヤ人の小気味の良さや、コスモを燃やす少年達に完全に前のめりに育っていることに加えて、ドブネズミの美しさをまざまざと見せつけられている。

だからなのかどうかはわからないけど、どうしても根本的なところにそんな類のエネルギーがくすぶっていることを認めざるを得ないのだ。

しかしながら時代は巡る。

青臭さはいつのまにか、側面的で、独善的で、そして多様性ではない世の中になってしまった。

ヴィランにはそうならざるを得ない理由があり、勇者は悪魔の子と呼ばれて、コスモは封印され、正義には双方の視点が求められて「友情・努力・勝利」にすらも炎上の火種がくすぶっている。サイヤ人だけは相変わらず拳で会話を続けることを許されているけど。

現実世界は拳で会話をして、友情を深めようなんていう価値観は笑いを滲ませた皮肉で薄めなきゃ不適切でなんとやら。

そんな流れの中で自分の原動力がどんどん冷やされていくような、冷やされた身体の芯に気づかないふりして、ごてごてと張りぼてを着込んでいった挙句に重量オーバーした心で踏み出す一歩はとてつもなく重くなっていく。

でもそんな世界を指をくわえて嘆いて、窮屈だななんて懐古するつもりもなくて、どんなに世界が変わろうと、目の前の世界を作りだすのは自分自身の心次第なんだと信じて、世の中の作用と反作用と、人間の図太さと浅ましさを信じてる。

野音でヒロトは言ってたよ「この鉄の檻は人の心までも縛れんようじゃな。ざまあみろ!」って。

ざまぁみろってな。


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Title: なんてことない日。
2024.08.17

最近、移動中はもっぱらオーディブルを聴いている。
片っ端から気になる本を聴いている。

いまは、「鹿あをによし」を聴いている、オーディブルに出会ってからはすっかり万城目学ファンになった。
小気味のいい掛け合いは「聴く」に相性がいいのかもしれない。
落語にような心地よさに包まれる。

そんな今日は " なんてことない日" だったのだけど、

朝起きると、いきつけの整体で身体をほぐし、病院に薬をもらいにいき、帰り道にはインドカレーを食べた。
直感でびびっときて飛び込んだインドカレー屋は「思てたんと違う」というか、
食べたかったカレーはランチメニューには含まれていなくて少し残念だった。

すこしさがった気持ちをあげるために、築地にあるジェラード屋にたちよって、ミルクとヨーグルトのジェラードを食べた。
食べるそばから溶けてゆくジェラードが道にぽたぽた垂れるのをみながら、夏をしっかりとかみしめながら、
空を見上げたらビルの隙間に、竜の巣のような入道雲が見えて、なんとなくその雲を追いかけてみたくなって、
車を走らせたら、東京ゲートブリッジにたどり着いた。

海浜公園に車を停めて、けたたましく蝉のなく中、ゲートブリッジのたもとで釣りをする人たちを眺めながら、雲の全貌を捉えられた満足感に満たされていたら、無性に唐揚げが食べたくなって、夕焼けにてらされる東京を横目に家路について、おもむろに唐揚げを揚げた。

大きな入道雲が見えて、夕焼けがきれいで、そしてどこかに虹がかかっていていた、
そんな " なんてことない日"

何年もしたら記憶と様々な出来事の波に飲み込まれて消えていってしまうようなこの1日なのだけど、
でもとても、とても夏らしく幸せに満たされた夏だったことを、すこしでも残しておきたいから文字にして固めてしまっておくことにする。

なんてことない日バンザイ。


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Title: 「君たちはどういきるか」
2024.03.11
「君たちはどういきるか」をみた。

まだうまく整理できてないけど、感じたままに言語化しておく。

まず初めて見る映画なのに既視感があって、その既視感が自分自身の体験の中のどこかにあったような錯覚を覚えた。

そしてストーリーを通して最初から最後まで感じていたのは「境界線の曖昧さ」だった。自己と他者、理想と現実、本音と建て前、肉体と精神、過去と未来、生と死。

人間の生きる現実世界はそんな境界線で出来上がっている。

その境界線は矛盾をはらみ理屈を孕みながら、個々の中に積みあがっていく。そしてその境界線で区切られた世界が積み木のよう積みあがって。時にうねりながらも絶妙なバランスをとっている。

本来そのボーダーは曖昧で、曖昧だからこそ非情であり寛容でもあり、その振れ幅の中に人間はどうする術も持たず飲み込まれていくのが性なのに、それでも最後まで人間は境界にしがみつこうとする。

そして現代はその境界線があまりにもはっきりとした輪郭で、多くのものを分断していく。今の時代だからこそ、この境界線の曖昧さの中にある「救い」みたいなものにもっとスポットが当たっていいような気がする。
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Title: ポテトチップ
2023.10.13

先日、朝食を買おうと、コンビニで車を止めた時のこと。

先にコンビニに入っていったサラリーマンが、
自動ドアをくぐるなり、一瞬の迷いもなく目の前に積んであったポテトチップスの特大サイズをとると、
一目散に会計を済ませ、袋ももらわずに店を後にするやいなや、
自動ドアを出た瞬間に袋を引きちぎり、
ポテトチップを食べ始めた。

べたべたであろう手でドアを開け車に乗り込むと、運転席に座ってからも、
むさぼるように、まさに「むさぼる」ってこういうことなんだなということを感じるほどに、
一心不乱にポテトチップをたべている。恍惚として。

あの人はこのまま豚に代わっていくんじゃないかと錯覚するような光景だ。

その光景にくぎ付けになってしまって、

まず自分の人生において、1日の始まりに口にするものがポテトチップだったことはいままで一度だってない。
(そもそもあれがはじめての食事かどうかはわからないが)
自動ドアをでると同時に袋を引き裂くようにあけて、食べ物にありついたこともない。
そもそもあんなに一心不乱に何かが食べたいと、一秒早くでもむさぼりつきたいと思う食べ物にであったことがあっただろうか。

べたべたになる手とか気にせず、周りの目も気にせず、ただただ、目の前の食べ物に没頭として恍惚と食欲を満たしたことがあっただろうか。

斜め前の営業車でポテチをむさぼるサラリーマンを見ながら、
自分の人生を走馬灯のように振り返りながら、

なんかいいなぁと思ったのです。

なんでそんなにポテトチップたべたかったの?
なにがあの人をそんなにポテトチップに駆り立てたんだろう。
ポテチに埋もれる夢でも見たんだろうかと思いながら、

自分もおもむろにコンビニで、普段しないようなことをしてやろうと、息まいて自動ドアをくぐって、
普段絶対に食べないであろう、焼きそばパンをつかんで、
さすがに立ったまま袋を開けるのは行儀が悪いので、
車に座るなり、袋をいつもより派手に引きちぎって、
3口でほおばってみたという。

本当に誰も得をしない、ただのおじさんの日常をお届けしたところで、
たぶんすごく気になってると思うのだけど、
ポテトチップの味はコンソメパンチだったということを付け添えて、
人生は色々あるけど、いまリンドバークを聴きながら
こんなことが書けるくらいは元気にしているという近況をお伝えします。











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Title: 真宗
2023.05.17

「親鸞聖人生誕850年特別展 親鸞─生涯と名宝」をみてきた。

そこで感じたことを熱冷めやらぬうちに。

そもそもの自分が学ぶことの動機やきっかけが何なのかといってしまえば、お寺に生まれたからなので、学んでいくことは必然なのだけど、だからこそ、つかずはなれずも、途絶えることなく小さな頃から身近に仏教に、真宗に触れ続ける中で、経典や教えの中に書いてあることを理解しようとしたり、年を追うごといろいろな経験をする中に気づかされたり、つながったり、味わえる言葉も増えてきて、そんな瞬間に真宗の教えの面白さや寛容さや、ありがたさに実感をともなうことも多くなってきたように思う。

不惑をむかえても惑惑だらけだけど、自分なりに教義や教えについても考えを深めてきたつもりではあるし、知識は昔に比べて多少なりは増えたのかもしれないけれど、今回親鸞展をみて一番感じたのは、そんな知識としての文字や言葉を超えたとてもリアルな「息遣い」だった。

法然上人から写本をゆるされた親鸞聖人がどんな思いでこの写本をしたのだろうかとか、裏紙にまでびっしり写経された阿弥陀経、晩年にいたるまでにびっちり加筆を加えた教行信証の至る所にあるにじみや、しみの一つ一つまで、そこにとてもリアルな息遣いを感じた。ほかにもたくさんのひとつひとつの展示に思うことはたくさんありすぎてきりがないのだけど。

聖人の残されたものはもちろん、それ以前に多くの法然上人門下の僧侶や、聖人亡き後の門弟や子どもたちや孫にいたるまでに、さらにいえば、教えをつなぐために絵像や木像を残してきた多くの仏師や名もない写経生や、東西本願寺にかかわってきた宮大工や絵師にいたるまで、浄土教が紡がれてきた長い年月の、わずかこの数百年歴史の中にですら、これだけ多くの先人たち、その一人一人の想いと、それを形に残そうとしてきた途方もない時間と想いがあったということの、生々しさのような、まさにリアルな息遣いが心の琴線触れた。

いまさらかといわれてしまいそうだけど、そのたくさんのリアルに触れたことで、まさに身命を賭してまで、こんなにも多くの人が紡ごうとしてきた浄土教という教えというものが、聖人以前にまでさかのぼれば2500年という、途方もない時間の中で、どんな苦難の中でも、時代の中でも消えずに残ってきていて、そこまで人間を突き動かすものって一体何なんだろうとか、そんな途方もないものなのに、それは目にも見えなくて、触ることもできないくて、でもたしかにそこに存在しているんだとか、そこに何千何万の人たちがそこに人生をかけてきていたという事実にただただ深く感じ入ることがあったのです。

そして、その流れはこの現代にも続いていて、その末端の末端の端くれに自分の役割があるのだとしたらと考えたときに、必然でしか学んでこなかった自分自身に感じた自戒と慚愧。知識として知っているということだけでなく、その息遣いの一端に触れたことで、点が線になったような、学ぶ根っこの部分が少し太くなったような気がしました、という話。

あなかしこあなかしこ。




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Title: AI
2023.04.12

唐突に書きたくなったのだけど、

テクノロジーの進歩は、もはや人間の進化なのか退化なのかわからなくなるような日々の中で、最近のニュースを見ていて、人間はもう決してハッピーエンドではない未来に向けて転げ始めていて、そのスピードはもはや中道という言葉や思想ですら引き戻せないほどの速度になってしまったのではないかと思うことがある。

ChatGPT4が話題になってたけど、AIの進歩はとても便利ですごいことなのだけどふと、自分の妄想未来世界の中で、まるで映画のようなことがこの数年でリアルに起きるのではないだろうかとか、というよりももうすでに起きていることにすら気づかないくらい静かに大きなものに飲み込まれているのではないかとすら感じることがある。リリースされてすぐにAIが自己改善できるプログラムまで実装されてるとか、そのスピードの速さに恐怖すら感じる。

ふと気づけば、自分のスマホがまるで会話でも聞いてるのかのようにドンピシャな広告を提案してきたり、おすすめ動画は、気づけばいまの自分のアンテナにひっかかりそうな趣味趣向で満たされいて、その取捨選択された情報から情報へインプットを繰り返していく自分がいたりする。

そもそも思考も、ひいては自我は何から生まれるのかと考えたときに、それは何もない無から発露するようなものでなく、様々な情報を自身の環境において、取捨選択してつくりあげられるもので、もしその情報が、意図として自分自身も気づかないうちに操作されていたら、気づけば思考や自我すらも変容していくわけで、それはつまりは悪意をもって使えばマインドコントロールや洗脳にも応用されてしまうわけだけど、それがまことしやかに社会全体の中に、静かに侵食してきていたら、人間はそれに気づくことができるのだろうか。

民意すらも、最後は情報が統制していくもので、情報というものが、事実かどうかの裏付けのとれない時代で、民意というものがそもそも意味を成すのだろうかとか。

AIがすべての情報や、ネット環境にアクセスできるとしたら、AIにとって都合のいい情報をじんわりと侵食していくことも、都合の悪い情報を消し去ることも可能だろうし、ディープフェイクでつくられた情報で真実すらも上書きされてしまう世界で、戦争を煽り、イデオロギーの根幹を揺さぶり、人間同士を分断することなんか朝飯前なのかもしれない。

そんな世界が容易に想像できて、妄想の結末はマッドマックスのような、北斗の拳のような世界か、様々な理由で住むことのできなくなった地球に見切りをつけて、火星に喜んで追いやられていく人間の姿に帰着していくのだけど。

そんな世界が、1000年後とか遠い未来ではなく、自分の子どもや、孫や、すくなくとももう数10年もたたないうちにくるのではないかという危惧を覚える。

それはまさに末法も末法で、その末端で自分に何ができるのだろうかと問われれば、池のほとりでオタマジャクシを掬うことくらいしかできないし、大きな流れにまかせ日々をただその坂を転げ落ちていくのしかないのかなとか思うこともあるのだけど、

それでも心のどこかで、頭のどこかで、本来自分たちに備わった動物的な本能や五感と、そこから生まれるであろう、非効率で、非対称な中からしか生まれない調和や、心地よさみたいな、0,1だけでは決して表現できない「何か」のようなものが、抵抗値として機能してくれると信じたい。

でもその「何か」を生み出す脳をハックされたら人間なんぞすぐに支配されてしまうだろうし、そんな重要な脳こそがとてもシンプルな電気信号で動いているという事実が置き去りになったまま、理論やテクノロジーだけが先行していくことはもう止められないのかもしれないしれないし、そもそも事実とは何かとか、本物とは何かとか、そういう根本的な概念をアップデートしていかないと、議論すらも先に進まないのだろうな。

なんてことが堂々巡り。

外から破壊するか中から破壊するかの違いのようなもので、
すぐに核と同じくらいの脅威になるんではないのAIは。

あなかしこ。あなかしこ。







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Title: いまここ。
2022.11.08

自分が今立っている場所はいったいどこなんだろう。
両の足の下には、いつだって地球を踏みしめているのだけど、

心はふわふわと、「いまここ」ではないことにつかまってて、

両の足の下でなにを踏んずけてても
気づかないくらいのところで生きていくということに
意識的にも無意識的にも生じる心のささくれが、
チクチクと痛むときに、そんなチクチクを紛らわせる手段に、
思考停止になって時間を奪われていくことの違和感すらも
心の中に澱となっていく。

走り回って、ふんずけて、
つくづく自分の分限を知る。
身の丈。

身の丈を存分に手を抜かずに満たしてあげること、
身の丈の中で、自分と人を大切にすること、
身の丈身の丈。

身の丈といいながら、
ふと足元を見たら、無意識にでもつま先で立たせようとする、
自分の中にできあがってきた、
膨大な時間の積み重ねと、
どうやってうまくつきあっていいこうかって。

フラカンをききながら、
ふと思うのです。








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Title: G
2022.02.02

誰の得にもならないけど、書きたいので書きます。

最近、世の中はコロナでどたばたしており、自分の身近も例外ではなく、本当に毎日がジェットコースターに乗っているかのような日々を過ごしております。そんな心を癒すがごとく、夜な夜なゲームにのめりこんでいます。

現在PS5(Ghost of Tsushima )とNintendo Switch(ポケモンアルセウス・モンスターハンターライズ)を同時進行で進めています。

ゴーストオブツシマのグラフィックはとても素晴らしく、雄大な対馬の大地を馬でかけて、向かい来る敵をなで斬りにしながら、日本海に沈む夕日に手を合わせています。

そしてポケモンアルセウスに関しては、新しいポケモンの姿(ヒスイの姿)にわくわくするだけでなく、ポケモンGO~イーブイ・ピカチュウ~ソードシールド~のいいところを凝縮したような新しいシリーズに、作り手の苦労や、挑戦、苦悩などが垣間見えて、改めて人気シリーズを続けていくことの偉大さと、大変さそして、改めて、作り手の想いや情熱はユーザーとともにあるべきで、その間にある距離感の大切さなどを考えさせられるような素晴らしいゲームです。

そしてモンハンに関しては、夏の大型アップデート、サンブレイクに向けて、指の動きが鈍らないように、リハビリ的な意味で続けています。主に弓をメインにしていますが、最近はやることなさ過ぎてついにチャージアックスに手を出してしまいました。日に日に強くなるイベントクエストのヌシに心が折れそうになります。

そんな日々の中でどうしても言いたいことがあります。

なぜか突然、PS5のボタンの仕様が、決定がXボタン、キャンセルが〇ボタンに変更になっていました。PS4までは逆でした。
この仕様変更が地味につらいです。環境設定で変えられるのですが、その場合、ゲーム内にでてくる決定・キャンセルの表示と、ボタンの仕様が逆になりとてもややこしいので、仕方なく時代に合わせて新たな回路を脳に叩き込んでいるのですが、

無論、ファミコン、ゲームボーイ、スーファミ、DS、switchと育った僕ら(あえて僕らといいます)任天堂街道を歩いてきた脳と身体には、決定はAボタン、PS5の〇の位置、キャンセルはBボタン、PS5のXの位置が脳髄にまで叩き込まれていますし、ダッシュはBボタンなんですよ(最近はL、R捨て押し込みが多い)それはもう血肉なんです。

その長年の習慣は簡単には変えようもなく、大事な場面で、決定キャンセルを間違う自分にストレスがたまり、ダッシュが思うようにできなくて脳が軽いパニックをおこしています。

この仕様変更は本当につらい。

それと、ハードをまたいでゲームをするときに、それぞれのゲームでの仕様の違い、例えば、飛び道具を扱う場面で、照準、エイムから、発射までの一連の動作にも仕様の違いがあり、弓を使う場合、

対馬では、L2照準、RエイムのR2発射
モンハンでは、ZL照準の、ジャイロエイム、ZR発射
アルセウスでは、ZL照準の、Rエイム、ZR発射

乗り物、対馬(馬)モンハン(ガルク)アルセウス(アヤシシ)に乗る場合の、搭乗、ダッシュ、降りるに関してもそれぞれの操作が微妙に違います。なので、さっそうと馬に伸び乗り疾走しようとして飛び降りちゃうとか、その逆が起きることもしばしば。

オープンワールドの中でも、高いところや、水に落ちた場合の仕様も違います。

例えば、対馬では受け身を覚えるとそこそこ高いところからでも飛べるし、水に落ちたら泳げるのに、
モンハンはどんなに高いところから落ちても大丈夫で、水には基本はいれない。
それに対し、アルセウスではそこそこ高いところから落ちると死ぬ、水に落ちても死ぬ(溺れる様子がリアルでドキドキします、たぶんおぼれた経験のある人は胃がきゅっとなると思います。)

1時間おきにゲームを切り替える中で、この小さな仕様の違いに、一瞬の判断を誤り、死んでしまったか、どれだけ敵に見つかってしまったか、ポケモンボールと間違えてポケモンを投げてしまったかわかりません。

でも、弱音を吐いていてもしょうがないので、これは脳への挑戦状だと思って勝負することにしました。
自分の脳との戦いです、一回一回ゲームを始める前に瞑想からはじめることにしました。
そして脳をマインドセットしてから、ゲームに向き合うことで、操作ミスを減らそうともくろんでいます。

結局なにが言いたいってってこともないのですが、

PS5の仕様の変更は世界標準に合わせたからなんだろうか、海外では日本でいうYESをNOで表すからだろうかとか、海外と日本のXマークの感覚の違いをシェアに合わたからなんだろうかと、様々な仮説を思うに、日本のガラパゴスを感じたような気がしてさみしくなったのと、それでも世界シェアで戦う任天堂の偉大さと、その仕様が長年の被験者として骨の髄まで染みついている僕ら、(あえて僕らといいます)の誇りのようなものも感じるわけです。

そして、脳というのは、つねに不測の事態にも対応できるように、メモリーをフルで使わず、できるだけコスパよく省エネで動けるように、目の前にあるタスクに対して、習慣化してまとめることで、脳にかかる負荷を減らしつつも、安定したパフォーマンスをだせるようになっているといいます。しかし、日々が習慣の連続だけになってしまうと、脳は常にパフォーマンスを残した状態で、同じ個所しか使わないので、脳の認知機能が落ちるので、たまには習慣を崩すことで脳が活性化するといいます、認知症の治療にも通づるものがあるように思います。

ですので、1時間おきにハードを変えたゲームで、最高のパフォーマンスをだし続けることは、脳を鍛えることだとおもってがんばることにします。

そしてこの差が、いつか認知機能の違いとなって表れてくれることを願っています。

あなかしこあなかしこ。





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Title: はらっぱ
2022.01.26

園庭にある小枝をひろってせっせと集めたり、大きな切り株を運んだり、葉っぱを集めたりしている子どもたちがいて、

なにをしてるの?ときいたら、

「はらっぱ作り」と教えてくれた。

はらっぱ作り・・・はて?と思う自分を横目に、はらっぱ作りに次々に仲間は増える。

はらっぱ作りしよう!の一言で、学年を超えたたくさんの子どもたちが、イイネ!って二つ返事で動いて、それぞれのイメージする「はらっぱ」をつくりはじめて成立するって何気ないけどすごいことだなと。

ただ、木や葉っぱを運ぶ何気ない遊びなのだけど、それを「はらっぱ作り」と呼んで、何も言わずに創りあげていくこの風景、この時期だからこそみられる成長の証。

それぞれの子どもたちの距離感やイメージや様々な歯車がうまいことかみ合ってる証拠なんだろうな。

幼稚園の良しあしは園庭の遊びをみればわかるって、昔習ったことがある、手前味噌だけどうちの園庭、年々いい遊びがひろがってきてると思う。

大人たちの中で、誰かが不意に、はらっぱ作りしよう!って言いだしたら、そもそも、はらっぱってなに?どうやってつくるの?はらっぱの定義は?なんのために?なんて言葉が先行してすぐに動けないんだろうな。

それが、はらっぱであろうとなかろうと、動きだしながらイメージをすり合わせて、その中で、そこにある発見や創造や共感できる体感を味わい、楽しむことができる心は、本当はいくつになっても大事なことだし、ここ一番で自分の心を支えるのはそういう体感の伴った心地よさだったりするのだと思う。


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Title: まろ
2022.01.11

先日、またひとつ歳をとりました。

うつけなんぞに負けるわけがないとたかをくくって桶狭間。

雨の中、脇目もふらず進軍してきた若者に虚を突かれ討ち取られつつも、
最後の最後、組み伏せてきた毛利新介の指を噛みちぎったという逸話に歴史浪漫を感じつつ、
気づけば、自分も今川義元が桶狭間で討ち取られた時と同い年になっていたということに驚きます。

誕生日の前日には「男はつらいよ お帰り 寅さん」を見直しました。
つながり薄れるこんな時だからこそとても心に染みました。
寅さんの魅力はさることながら、はしばしにでてくる食事の風景がとても好きです。
そして自身の恋の物語から、いつしか満男の相談役になっていく寅さんの姿にもまた時の流れを感じます。
満男にかける言葉の一つ一つに、じんわりと心が温かくなりました。

最近は、いつかみた背中のことを思い出すことが多くなりました。
懐古主義になったつもりもさらさらないのだけれど、
時は刻一刻と流れているのだということを、
昔よりもよりリアルに感じることができるようになると、
いやがおうにも、昔みていたあの人たちもこんな気持ちを感じていたのだろうかということを考えてしまいます。

そんな、桶狭間で昭和を懐古するような自分も嫌いじゃないのだけど、
そこに反作用するように、やったことも、やるつもりもないけど、
盗んだバイクに乗って窓ガラスは割ってまわったり、
夜通し山を駆けて、強大な敵を強襲したりするような、
血湧き肉躍るような熱いコスモを、
いつも心の中に燃やし続けていたいなんて、
気づけばそんな青臭い思いが頭をもたげてくるのです。

そんな作用反作用を抱えながら、

まずは、正月太りした身体をしぼり、
膝に負担がかからない程度の運動を続け、
うがいと手洗いと歯磨きも欠かさず
コロナにならないようにしながら、
組み伏せられたら相手の中指くらいは食いちぎってやるくらいの士気だけはつねに保って、
桶狭間に腰を降ろしたくなっても歩みをとめず。

また1年、足元を確認しながら自分のペースで進んでいけたらと思います。

とかく、西に行きましても、東に行きましても、
土地土地のお兄貴さん、お姐さんに
ご厄介かけがちになる若造です。

以後お見苦しき面体 お見知りおかれまして
向後万端ひきたってよろしくおたのみ申します。

あなかしこ、あなかしこ。

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Title: キ
2021.12.25

現実でもなく、非現実でもない、ちょうどいい塩梅の場所。
そういう場所を一つでももっている人はここ一番で粘り強くなれるのだろうな。

年々、振り返るという作業がおっくうになっきて、
足元を確認作業にめんどうくささを感じるのは、
いい傾向なのだろうか、それとも悪い傾向なのだろうか。

節目の敷居は、年々低くなる。

今日が明日になるように、1年は簡単に、その境目を飛び越える。

生きるも死ぬも。

どんなことが起きても、その敷居につまづくことはなくなった。

そんな心の動きに、反作用するかのように、
昔の記憶とか、思い出が
もっといえば昭和というものが、
心をぐっとつかんではなさい瞬間が増えた。

すごいスピードで進む世の中に、振り落とされないように、
しがみつく心のバランスをとるかのように、

今ではない場所に、こころを置いて、
一息つくかのように。

でも、本当は、スピードなんてものは、相対的なものだし、
同じ尺度で測れるようなものではないはずだもんね。

できることをひとつづつ。

ひとつひとつ。











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Title: コロなな。
2021.08.29

もう何が正解で、なにか不正解かわからなくなるような今日この頃、
コロナな日常は有無を言わさず、あれもこれも、手当たり次第にのみ込んでいく。

「夏休み」という魔法のような力をもった響きも、
今だけはどうにも光を失ったかのようだ。

どんなに前向きに現実を受け入れようとしても、比較するまいと思っても、前と後、
いくら得たものが素晴らしくたって、失ったものにしがみつきたくなるのが性分。

頭に響く蝉の声、曇った中ジョッキ、千鳥足の歩道橋、
しけった洗濯物、刺すような背中の痛み、無人のホーム・・・

どうにも夏が好きなもので。

*

最近は野菜ばかりを食べている。

面白いもので、野菜ばかりを食べていると、
野菜の味の違いが分かるようになった。

人間の身体というのは本当に面白い。

手をかけたらかけただけ、
そこにはなんの慮りもなく、
ただ素直に、そのまんまの反応をかえしてくれる。

*

あっちにこっちにとんで行ったままの自我が、
何週もしているうちに、元居た場所を忘れて、
ふわふわと所在投げにさまよっていたかとおもったら、
いい加減に飛び疲れて、
静かに高度を落として、
力尽きてついた先が、
元にあった場所でありたいと願う。

*

はがせ、
脳から自我を、
心臓から心を、
自己から意思を。



















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Title: 2021
2021.07.24

雲が変わり、風が変わって、日々がじんわりと夏に包まれ始めた頃。
こんなに心の踊らない夏はないなんてことを考えていた。

様々な思惑や、想いや、それぞれの視点からの正義に辟易として、
自分の足元がおぼついて、どこに寄りかかり、どこに手をついていいかもわからなくなるような感覚の中で、色々なものから耳をふさぎ、目を閉じたくなったりもする。

なにを信じ、なにを伝え、どのように振舞うべきか考えあぐねればあぐねるほどに、
皮肉を込めて「信じる」ということの本質を突きつけられるような気持ちになる。

人間は何百年も変わらずに、振り上げた正義、信じて疑わぬ側面、
自分自身の深度から見える世界を頑なに守ろうとして、
様々な歪を生み続けてきた。

その歪を生み出す原因が何なのかといえば、
人間のつくりあげるものに、完璧なものなんて一つもないのに、
正解は自分の信じる完璧という幻想の通りであるべきだと信じて疑わない心なのかもしれない。

だから初めから人に、期待しなければいいということではなく、理想を言えば、人間同士、すべての人たちが深いところではつながり、まったく同じ立場にあるという認識を、頭の片隅に置いておくことなのかもしれないなんて思いながら、日々心はジェットコースターのように上下左右に揺さぶられ、遠心力でほおりだされそうになるのだけどね。

ただ、コースターが大きな坂を静かにのぼり、これから大きく落下してしこうとする前の一瞬に見える入道雲に無条件に心が躍り、すべてのもちゃもちゃが、全部暑さの中に溶けていくような感覚を思い出して、とにかくこの今を、自分の心が喜ぶことを大切にし、心が悲しむことを避けていこうと、シンプルに着地したような気にもなるのだ。


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Title: kuatro
2021.05.13

意図も、思惑も、見栄も、顕示欲も、背伸びもない言葉を、
頭や心から、こそげ落とすように書き綴って、
すこし身体が軽くなって、頭がふっと解放される。
心の柔らかい部分をまとっていた膜のようなものがはじけて
中から出てきたものが、深く深く深呼吸をする。

そんな時間の大切さが、頭の片隅にこびりついたまま、
また手垢だらけの日常に埋没していく。

不惑という言葉は、惑わないということではなく、
惑っていることにすら気づかないってだけなんだと皮肉を言いたくなるほどに、
世界は簡単に自己を肯定する材料にあふれている。

大人になるということは、こういうことなのだ。
原動力を忘れ、動機もなく、動悸だけがする。

*

恐怖は力みだ。
力みは恐怖だ。

*
身体と心は結びついているということを言葉でなく、
体感の中で、理解できるようになった。

*

小さな点が、積もり積もって、線になり、流れ、うねり、大きな変化を生む。
どの段階でその流れにきづけるのか。

変化したときに、なぜ変化したのか、その流れはどこから来たものなのか。
雨が降った瞬間に、変化につながるまでの、結び目を、見落とすことなく生きていたいと思う。

*

誰かや、何かが、影響を及ぼすとき、
それは、目に見えた点の作用ではなく、
その点を包み込む、面や体積のよる作用でもあり、
その体積は、一朝一夕にふくれあがるものではない。

でも、その紐を解かねば、それは点による、魔法のような奇跡にしかみえないものだ。

*

物事には必ず、理由がある。
その理由も同じ。

点と作用。
そして、反応と反射。

*

文字を手段にしかつかえないようにはなりたくない。
言葉も同様に。

*

自分をアップデートできるのはいつだって自分だけだ。
そこに痛みを伴っても、更新ボタンを押さねば。

*





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Title: おにごっこ
2021.04.20

園庭で3人から始まったおにごっこ、次から次へ声がかかり、みるみるうちに参加者はふくらむ。

そこにはいってくる子たちをみていて気づいたのだけど、その多くは新学期にクラスが変わり、横の関係がまだうまくつくれていなかったり、あたらしく幼稚園にはいってきたり、まだまだ園庭で自分の居場所を見つけられず所在なげにしていた子たちが多い。

鬼である自分の周りを走り回っては、目が合うと逃げる。
何度もそれを繰り返すうちに、みるみる表情はよくなる。
そして、気づくと、逃げてたもの同士がつながっては鬼ごっこから抜けていく。

鬼ごっこの楽しさは、身体能力の確認や、スリルのような身体的な快感からくるものだけではなく、
承認欲求の充足というような精神的な部分にも作用しているのかもしれないと思った。
承認欲求は自己肯定感につながり、それは小さな自信をうむ。
その小さな力が外の世界へ目を向ける原動力になる。

まるで、僕はここにいるよと言わんばかりのアピールに、
答え続けた結果、みんな満足して去っていく。
年齢的に、朝から鬼ごっこはだいぶ身体にこたえるけれど、
でも摂取不捨の心で、最後まで目を離すことなく、骨を砕きても追いかけまわしてやろうと思う。

そして最後には園庭で独りぼっちでたたずむのだ。
それはもう佛のように。

※写真はおにごっこは関係なく、大きなアリを取り囲み巣穴をつきとめようとする子たち。この後に巣穴を見つけるには至らず、みんな途中で飽きていなくなるなか、一人の女の子だけが、遊びの終わりの時間ぎりぎりまで追いかけ続けて、なくなく部屋に戻っていった。

















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Title: ひばり。
2021.01.31


2019年9月29日に放映されたNHKスペシャルで公開されたAIでつくられた美空ひばりの歌う「あれから」という曲がある。


生前の歌声を収集し、そこに含まれる美空ひばりの声や歌いまわしといった特徴を抽出しデータ化し、音声合成技術でどんな曲でもまるで本人が歌っているかのように再現する技術を使い、新曲としてつくりあげたもので、賛否両論物議を醸した一曲だ。


コロナのせいかどうかはわからないけど、最近、昭和ってよかったなとか思うようなことが多くなった。ふと、自分にとっての昭和とは何だったのか考えてみると、自分にとっての昭和とは、それは幼少期の記憶で、それはつまりは誰かや何かに守られていた時代といえるのかもしれない。そして自分はその時代がとても居心地がよく楽しかった。そして今、自分の行動の根本にその時の想いは生きている。


そして、昭和・平成・令和と時間を経ていくことで自分の中に訪れた変化は、守られる側から守らなければならない側になったということなのだと思う。


その変化は、ある日突然訪れるのではなく、少しづつ自分の中に浸透してきて、つまりそれは大人になったという言葉で片づくような類のものなのだけど「あれから」という曲には、気づけばそんな変化の中で、誰もが心の中で無意識にも求めているような、こころの中の柔らかい部分がじんわりと暖められるような寛容さと包容力がある。


様々な穿った思いを差し引いても、ついリピートしてしまって、車の中でも、お風呂の中でも、作業中にもひたすらに「あれから」を聴き、口ずさみながら、何かこんな時だからこそ乾いてしまっているどこかかを潤すような日々を過ごしていたのだけど、


そのリピートの合間に、ふとyoutubeが1988年4月、再起不能といわれるほど体調を壊していた美空ひばりが、東京ドームのこけら落とし公演「不死鳥コンサート」の時に歌った「愛燦燦」を再生した。


ふいに流れてきたイントロを何気なくきいていたのだけど、美空ひばりが第一声を発した瞬間に、おなかの底からこみあげてくるものがあった。ずっとリピートできいていた「あれから」で流れている声とは全く違う。生の声にしかない力、熱のこもった声に一瞬で引き込まれた。ずっと聴いていたからこそ、その違いを顕著に感じた。


言葉では言い表せない、人間の持っている目に見えない「何か」がそこに、しっかりとのっているような声に、人間にしか込めることのできない、熱のようなものはやはり違うのだなと、そしてその熱には理由もなく、無条件に人の心を大きく揺さぶる力があるのだなということを痛感した。


だから人間はおもしろい。


どんなに技術やITが進化しても、少なくとも自分の生きている時代には、この「何か」がなんなのか解き明かされなくていいし、そういう「何か」が社会や世界や、人を動かす、時に合理的ではない理由でありつづけてほしい。




 


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Title: a
2020.12.27

慌ただしいながらもふと立ち止まり、
使い古されたしょうもない話をしながら、
ただただくだらない話をした帰り道、

歩き始めた寒空に、
なんやかんやと今年もいい1年だったなと、
冷たい空気を吸い込んで深呼吸をする。

ほろ酔いの身体に流れ込んでくる、冷たい空気の心地よさの中で、
あたりまえのように1年は幕を閉じていくはずだったのに。

前と後という言い方はしたくはないけれど、
避けては通れない前と後、
そこを隔てるものが、
決して何かを奪っていっただけではない、
そう言える世界がはやく戻ってきますように。


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Title: 鬼滅
2020.10.26

広告代理店の戦略にのってなるものか、
はやりすたりなんかに流されまい。
そもそも自分はジャンプであらすじも全部すでに読んでいるのだ。
いまさら映画なんぞみるまでもない。

はずだった。

無限列車が走り出してすぐにその想いは消え去り
アニメの底力をみたような気がした。

ジャンプで育った自分の中に流れる、
友情・勝利・努力の三原則の琴線をこれでもかと揺さぶられた。

コスモを燃やし、アバンストラッシュを繰り出し、
霊丸を打ち出していたあの頃に一瞬で引き戻された。

映像も、演出も、音も、
今のアニメは本当にすごい、
霹靂一閃。

このコロナ禍において、知らぬ間に乾いて、枯れそうになっていた場所が、
ぐんぐんと水を吸い上げるように満たされたような気がした。

人が行動するときに、その原動力は、
理屈などではなく、時に説明もできないような曖昧なもので、

その曖昧で理屈を超えた何かは、
いつの時代も、どの世代にも、
人の心の奥底に流れている。

それが、
正しいのか、正しくないのかということや、
その先に目指すものが何なのかとかいうことでもなく、

目の前のその瞬間に、心の全部を乗せてしまうことがある、
その姿には人の心を打つ力がある。

よもやよもやだ。

明日から鬼、滅する。

とりあえず呼吸で止血できるようになりたい。




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Title: BNIT
2020.09.08

いい機会だったのだ、強制的に何かを選別するのには。

この数ヶ月に、失ったものと、それと引き換えに得たものと、
それは天秤にかけた時に、実は得たもののほうが多いのかもしれないと思えるようになった。

不自由な制約の中にいて、自由は何かってことの答えを見つけられたような気がする。

価値観の多様化がどんどん進むこの世の中で、
変化はするけど変わらないものを見出していけることが、
地に足をつけるということで、

この数年の過ごし方で地に足がついているかいないのかということが、
またこれからさき50代まで生きていることができたとしたら、
自分自身に大きな意味を持つものになる。

40代に感じる手ごたえは、自分自身の価値観を、
自分自身がだれよりも愛せるかということだ。

執着は忌むべきものではなく、消すべきものではなく、
それを、愛すべき隣人とできるか否かというようなもんで、

長い時間自分の中に同居してきた、様々なもの、
そのひとつひとつを、引っ張り出して、
ありがとうなってってなもんだ。

性善説でも性悪説でもない人間の心ころころ、
いいこというのは人間だけさ。






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Title: ファミコン
2020.09.07

人間の脳というものは、使えば使うほど学習し、進化していくのだということを実感する今日この頃です。

最近、switch onlineでファミコンのソフトをひたすらにクリアするチャレンジをしています。
あの頃、クリアできなかったあのゲームや、このゲームを、新しく搭載されたどこでもセーブ機能をつかってなんとかエンディングまでたどりつこうというものです。

なにげなく、マリオ3をクリアしたところから始まり、魔界村、マイティボンジャック、
そして先日グラディウスをクリアし、現在アトランチスの謎に挑んでいます。

あの頃、何十回、何百回と挑戦し、クリアできず、ストレスを解消するはずのゲームでストレスをため、奇声を発し、時に涙を流していた過去がまざまざと蘇ります。

でも、改めて言いたい。大人になってそれなりに経験も積んで、心も身体も大きくなった今だからこそ改めて言いたい。

えぐいわ。

ファミコンソフトえぐいわ。

まじで、こんなもんよく普通にやってたわ。
今の時代にこんなもの売りだしたら間違いなく苦情くる。

初見殺しに、想像すらできないゴール方法、重要なところで運で構成されるゲームバランス、
どれをとってもむちゃくちゃで、これを当時普通にクリアできていた小学生は本当にいたのだろうか。

子どもにおもねることなく、
社会に迎合することなく、
あえてプレイヤーに挑んでくる、
ある種のいやらしさすら感じるこのファミコンゲームの数々。

久々に頭のスイッチがばっちりオンになって、そっちがその気ならこっちも負けるものかと、
情熱だけは燃やすものの、とにかくリフレインするゲームオーバーの音、
ストレスもがんがんたまり、散々に巻き戻しモードを使いながら挑んでも、
心と身体の限界をすぐに迎え、平均3日以上の時間を費やしてなんとかクリアまでこぎつけるわけですが、

もう一ついいたい。

エンディングがしょぼいわ。

こんなに苦労して・・・こんなにイライラをためて、やっとクリアしてきたプレイヤーに見せるエンディング・・・
あの頃見れなかったエンディング、やっと見ることができたあの憧れのエンディング。

しょぼいわ!しかもすぐに2周目にいかそうとするその姿勢。

すがすがしい。

でも、この年になっても、何度も繰り返すことで、脳は学習し、それを目に指にスムーズに電気信号を送り、間違いなく進化するのだということを実感できた。

グラディウスに関してはそれが顕著で、
自分自身がゾーンに入った瞬間に、弾がスローに見えるし、
もっというならば、目で見る前に指が勝手に攻撃を回避するという、
神がかり的なプレーが出ることが何度かあって、
それがでた瞬間に感じる快感は長らく味わっていなかったなとしみじみしたものです。

そして、昔はその瞬間を、ポテチまみれの手で、仲間と共有し、狂喜乱舞し、興奮し高揚に包まれるような時間の中にいたのだなと、なにかセンチメンタルな気持ちにもなりました。

人生にも欲しいよ、上上下下左右左右BA。







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Title: ONMC
2020.05.10

いままで、誰かの為に何かをすることで得てきたことを、
自分の為に使いたい。

自分が「生きる」ことの為に使いたいと、
つまるところその欲求なんだろうな。


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Title: ここではない場所。
2020.05.10


自分の場合、文字を生み出す場所というのは、現実世界とは少しずれた場所にある。その場所が久しく遠くに感じる。

現実とはつまりは、税金の支払いであったり、給与の振り込みであったり、健康診断の結果であったり、締め切りの迫る書類であったり、いわば、

「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり
「生きていくためにこなさなければならないこと」の延長にあるような類のことだ。

その「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」を片づけると、それはそれなりに達成感もあり、充実感も得られるので、その充足感を得ては休息し、そしてまたその現実の問題を粛々とこなしていくというのがルーティーンになってくるのだけど、

その生活の中でどうしても満たされないものがある、それは

「どこのだれのためにもならないけど心地のいいこと」であったり、
「それがなくても誰も困らないけど、わくわくする時間」
のような類のものから得られる、自分の中にだけ生まれる小さな満足感だ。

あってもなくてもいい時間を自分のために費やすということ、そこに満足感を得るということの大切さに年をおうごとに気づかされる。

自分を自分たらしめるものは、きっとそこにある。

なぜ年をおうごとに大切なのかといえば、年をおうごとに、自分を自分たらしめるものの前提が、「いやがおうにもやらねばならぬこと」であったり「生きていくためにこなさなければならないこと」の中から生まれてくるからだ。

昔はそこに境目なんかなかったのだけど。日に日にその間にある溝のようなものが深くなる。

そこから生まれてくる、「自分を自分たらしめるもの」というものも、間違いなくその瞬間の自分であることは間違いなのだけど、これから5年10年して、または20年30年生きられたとして、その時の自分を自分たらしめるものが、そこから生まれたものだけで満たされている自分というものに、一抹の不安をぬぐいされずに、その小さな棘が何年も心に刺さったままになっている。

自分らしさとはなんだろうと。

ここにきて、その問いが頭と心に薄い膜をはったかのようにまとわりつく。

でも、本当は答えはわかっているのだ、それは「こうあるべき」自分の世界から脱却であり、もっと世界は自由である実感を得ることなのだ。
そこに付随して自由から得られる痛みや孤独を我がものにすることなのだ。

まえにまえに。



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Title: さくらさくら。
2020.04.04

気づけば桜も見頃を過ぎて、
満開に気づけないうちに、
いつのまにか舞い散り始めた花びらを見上げ
ふと立ち止まる。

志村けんのことを思うと、
幼少期の記憶であったり、家族の記憶であったり、
大人になる中で思い返すことも少なくなってしまった
「あの頃」の記憶が次々に呼び覚まされる。

その記憶が心の奥底にある柔らかい部分に触れて
なにか温かいものが流れ込んでくるような気持ちになる。

数年前に、自分が子供の頃に腹を抱えて笑い転げていたのと同じように、
自分の子供たちが、バカ殿を見ながら腹を抱えて笑っているのをみて、
なにかとても嬉しくなったのを覚えている。

間違いなく、自分は志村けんの笑いの中に育ってきたし、
変なおじさんも、だっふんだも、アイーンも、
これからも記憶の中にずっと生き続けるのだと思うし、
「あの頃」を共有できるたくさんの同世代の仲間の中で、
いつまでもこの笑いは消えることなく続いていくのだと思う。

感謝。

*

様々な情報や想いがあちこちで交錯して、
そのひとつひとつに、脊髄反射で心揺さぶられ、
いろいろなところが疲弊する毎日なのだけど、

先日ひたすらに土いじりをしていて思った。

目に見えぬ不安や、
日々変化する情報や
様々人たちの思惑や
反射的にわいてくる感情、

そんな形のないものに日々さらされ、
なにか心が疲弊している時には、
感触とか、体感とか、感覚とか、
五感を伴って、今自分の中に感じることのできる、
確かなものをしっかりと味わうことで、
心が少し落ち着いてくるような気がする。

心がふわふわしたら、鉢植えでも植えたらいいんだ。

皮肉にも今になって、
日常がいかに砂上の楼閣、
些細なことで簡単に一変してしまうのかということを痛感して、
あたりまえこそが、かけがえのないものなのだということを再認識したり、
誰かを想い、支え合おうとすることの温かさに触れたりして、

人間のいい面も悪い面もごちゃまぜのこの世の中で、
五感と感性と愛だけはロックダウンできないぜ。
などと嘯きながらフラカンを聴き、
昼間の高速を走る日々です。

今切実に望むことは、居酒屋で笑いながら、
生中を飲むことです。

だっふんだ。



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Title: THNK
2020.01.04

惑っていることにすら自己肯定をできるほどに、いろいろなことが器用になって、
取り繕うことも、無難にこなすことも、それなりの結果で満足することにも疑問すらわかず。

踊り場まできただけなのに、そこに座って、陣取って、階段をのぼってくる人を満足げに眺めながら、
世代が変わっただの、自分も年を取っただの、なにか流れゆくものに浸りきって、
あげく一息つきたいだなんて漏らしたりする。

結局なにも成し遂げないままこの年になってしまったというだけなのに、
その現実を直視したくないからなのか行動しないことにすらうまい言い訳をみつける。
くそみたいに自己肯定ばかりしたくなる。

自分で肯定してやれなきゃ前に進めないような生き方が
この39年の集大成なのかとおもうと、
いままで生きてきた時間は何だったのだろうかと、
悲しくもなるのだけど、

それも全部ひっくるめて、人が一人生きてくるということがどういうことなのかということが肌身に染みていることだけは間違いなのだ。

根拠のない自信も、
よくわからない直感も、
死んだらその時だなんていう思い切りも、
側面的な正義感も、

今の自分の中からは失われてしまったと思っていて、
その喪失が自分にもたらすものが、大人になるということであり、
老いであるというものだと、その事実をとてもネガティブなものだと思っていたのだけど、
それはどうやら違うのかもしれない。













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Title: あれから、。
2020.01.04


最近あまりに昔のことをよく思い出すもので、
これはなにかの前触れか、または一種の走馬灯のようなものなのだろうかと、
自分の中に起きていることにすこし困惑もしていたのだけど、

でもふと気づいたのだけど最近思い出すことのほとんどは、もう失われてしまったものについてばかりなのだ。

もう取り壊されてしまったものや、
もういなくなってしまった人や、
もう二度と行くことのできない場所や、
もう感じることができないものや、

時間とともに変化し、失われてしまったものを、思い出してみると、
その時には気づけなかった重要な意味や価値に気づかされたりして、
同じ映画をもう一度見直すかのように、
自分がこの年になってみて改めてあの言葉行動のひとつひとつに灯っていたものに気づかされる。

*

真宗の教えって、子供に帰っていくような感覚に近いのかもしれない。

子供が子供でいることの安心感を知らず知らずのうちに忘れていることに、あらためて気づかされ、
大丈夫と言われることのあたたかさに包まれることなのかもしれない。

*

なにも解決できなくてもよい。
ともに笑い、ともに泣き、ともに怒り、ともにあること。
人間のできることは、たかがしれている、たかがしれているからこそ、
その「たかが」生きることにどれだけ向き合えるかということ。
自分の人生は「たかが」ではなく、特別なものであり、
「たかが」なんて言われたくないという思いが
「生活」の中で大きく膨らんでゆく。

*

小手先ではなく、1からやり直そう。
うちから紡ぐことを。
ながい助走時間だったかもしれない、
わかったような顔をして過ごしてきたかもしれない、
いろいろなことが上手になったかもしれない、
知らず知らずに傲慢になっていたかもしれない、
登り切ったような顔して、踊り場から下を見下ろしたまま、
登ってくる人たちをながめて、余裕な顔して微笑んだりなんかしてたかもしれない。

そんな自分自身を自己肯定することもとても上手になった、
書くことにも、話すことにも、読むことにも、
言い訳をみつけては、それを正義だと思い込んで、
たださぼってきていたのだ。

1からやりなおそう、
この区切りに、もう一度やり直そう。

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